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1.日常はざまあと隣り合わせ
学校の一角。人気のないその場所で、この場面を目撃したのは偶然でしかなかった。
「もういいだろ。もう遅いんだよ千夏……だって君は、僕を裏切ったんだからね」
「そ、そんな……っ。違う……違うよ健太郎っ」
「触らないでくれ」
パシンッ、と。少女の伸ばされた手が叩き落とされた。
険悪な雰囲気の男女。明らかに修羅場の現場だ。
その修羅場の当事者、杉藤千夏と大迫健太郎は俺のクラスメイトである。
二人の関係を知っているだけに、この場面を目撃した俺はひどく驚いていた。
千夏ちゃんと大迫はいわゆる幼馴染の関係である。
しかも千夏ちゃんは大迫に好意を寄せていた。なんでもそつなくこなす彼女は、少々要領の悪い幼馴染の面倒をよく見てやっていた。文句を口にしながらも、傍から見れば世話を焼けることに嬉しさが溢れているのが丸わかりだった。
それがなんで「裏切った」なんてことになっているのか。
「昔から千夏は横柄で傲慢で、本当に自分勝手でさ。僕は元々そういうところが大嫌いだったんだよ。それだけじゃなくあんな陰湿なことをして……僕を玩具にして楽しかった?」
「違う! 私そんなことしてないっ! 私じゃないの!」
「もういいよ。言い訳は聞き飽きた。──行こう綾乃」
大迫はこの場にもう一人いた女子、松雪綾乃の肩を抱いた。
松雪は同級生で、学校中の男子から人気を集める美少女だ。色白でストレートロングの黒髪が清楚系美少女って感じでウケがいいのだろう。
そんな人気者がなんで大迫と仲良さげにしているんだ? しかもよりによって千夏ちゃんを責めている男の隣にいるとか、まるで関係性が掴めない。
「嫌……待って、待ってよぉ……っ。お願いだから待ってよ健太郎!」
千夏ちゃんが手を伸ばしても、必死に声を張っても、大迫はそれを無視して松雪の肩を抱いたまま背を向けて歩き出した。
「いいんですか、健太郎くん?」
「いいんだよ。千夏はこれくらい言わなきゃわからないんだ。人の気持ちを考えようともしないワガママ女には付き合っていられないよ」
泣き崩れる千夏ちゃんを無視して、大迫と松雪は立ち去ってしまった。
残された千夏ちゃんはしばらく泣き続けていた。こんな状況で姿を現すわけにもいかず、彼女が落ち着くまで隠れていた。
やっと落ち着いたのか、千夏ちゃんは一人でフラフラとこの場を後にした。
……とんでもないものを目撃してしまったな。
理由はわからんが、大迫の中で千夏ちゃんは悪者になってしまったらしい。
どういう行き違いがあったのかは知らない。けれど千夏ちゃんが大迫に対して悪いことをするとは考えられなかった。
千夏ちゃんは言葉や態度にきついところがあるのは確かだ。でもとても愛情深い女子であるのも、俺は知っている。
──俺は、彼女のそういうところが好きなんだ。
でも大迫に一途な千夏ちゃんに、俺の好意は届かないとわかっている。
だから告白なんかできなかったし、必要以上に彼女と関われなかった。普通の友達以上の関係を望めば、すぐに拒絶されてしまうことが想像できたから。
「ひっく……ぐすっ……」
静かな廊下に、千夏ちゃんの嗚咽が小さく響く。
……しかし、今ならどうだろうか?
いくら好きな相手とはいえ、あれだけひどく罵られた。彼女の心は大きく傷ついたことだろう。
普通なら愛想を尽かしてもおかしくはない。それでも一途な彼女なら、これまで育んできた好意がいきなり全部なくなることもないだろうと思う。
だけど、確実に心が揺らいだはずだ。
悪口を言われたら怒るし悲しむ。それは誰もが当たり前の反応で、今回のものは明らかに罵倒の域に達している。好きな人が相手だとしても、嫌な気持ちにならないはずがない。
この感情の揺らぎを見逃すわけにはいかない。
「……よし」
これはチャンスだ。
傷心の千夏ちゃんにつけ込む。そして俺に振り向いてもらう。この短い時間でその考えを思いついた。
善は急げ。千夏ちゃんが立ち直る前に、傷ついた心の隙間に入り込まなければならない。
俺は駆け出した。彼女の涙が涸れてしまうまでが勝負だ。
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