熊野詣・西国観音巡礼の自転車旅 2010.4 写真;新宮市神倉神社天磐盾(ゴトビキ岩)

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1.プロローグ   一昨年の平成20年11月に四国八十八カ所の霊場を完全踏破し、次は西国三十三カ所の観音霊場の巡礼と定めて色々と準備を進めて来た。四国と同じ徒歩で巡るか、それとも自転車とするか、いずれにしても動力の付いた乗り物だけは避けようと思い、西国巡礼の図書やインターネットの検索などで調べている。霊場の経路には様々な古代の史跡があり、また第一番札所となる青岸渡寺は熊野三山の一つである熊野那智大社の側にあり、熊野古道や熊野本宮大社、熊野速玉大社も経路の選び方で訪ねられる可能性があることが判った。こうなると歩きでは少し無理のあるところであるが、自転車なら巡ることが可能であり、今回の旅はこのような理由で自転車を選ぶことにした。  出発の時期は当初、昨年の秋を考えていたが準備不足やらその他の事情もあって、延期をして4月になった。あえて天候が不順となるこの時期にしたのは悔過というのは苦行でなければ意味を持たないと、熊野参詣の歴史的な伝承にこだわりを持ったからでもある。  「熊野へ参らむと思えども、徒歩より参れば道遠しすぐれて山峻し、         馬にて参れば苦行ならず、空より参らむ羽賜べ若王子」    これは平安時代の中期より後期にかけて流行歌として世にあった今様を、後白河法皇が集成した「梁塵秘抄」の中の一首である。熊野へ参詣しようとしても歩いて行けば道は遠くて山道は険しく、馬で行くなら苦行でなく抖擻行が出来ず、ならば空を飛んで参詣したいので羽を賜りたいというような趣旨の歌であろう。  また次の一首の通り、この当時に京より熊野へ参詣するには伊勢路と紀伊路があり、熊野の広大無辺な慈悲を授かるにはどちらの道を選んでも同じであるという意味である。   「熊野へ参るには紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、             広大慈悲の道なれば紀路も伊勢路も遠からず」  紀伊路には紀伊田辺の町より山中へと分け入る中辺路と紀伊半島を回り込む大辺路の二つの経路があるが、多くは紀伊路の中辺路が使われたようである。京の城南宮から旅立ち、淀川を下って摂津の国の渡辺の津(今の天満橋辺り)にある窪津王子から、九十九の王子社をたどりながら紀州の西海岸を進み、田辺の町より山中へと分け入り、富田川をさかのぼって幾つもの峠を越え熊野本宮大社に至るのがこの道である。ここから小雲取越、大雲取越という難所の峠を越えて熊野那智大社へ、更に東海岸に出て熊野速玉大社へ参詣するのが熊野三山詣であった。ただ、裕福な貴族は、小雲取越、大雲取越を避けて熊野本宮大社より船を使い熊野川を下って熊野速玉大社に行ったようであるが、熊野那智大社へは登りの山道になる。白河、鳥羽、後白河と続く平安時代後期の院政の頃には、「蟻の熊野詣」と言われるほどに貴族社会の中で盛んになり、熊野への道には人々が連なるように満ち溢れていたようである。  山また山が重なる辺境の地である熊野に常世の世界を観念し、あの世で永遠に生きたいという往って生きる「往生」の思想を具象化したのが、この地の峻険な自然である。11世紀には仏が神の姿に変えてこの世に現れるという「本地垂迹説」が唱えられ、熊野本宮大社の證誠殿に祀られる阿弥陀如来に、「往生」の証をして貰うのが一つの目的になっていた。この熊野詣を「中右記」に書き残した藤原北家道長の次男頼宗の曾孫となる中御門右大臣藤原宗忠は、その過酷な旅の果てにたどり着いた證誠殿の前で「落涙抑え難く、隋喜感悦す」と、その感動を現している。  そして、熊野聖や熊野比丘尼により伝えられた熊野への信仰は民衆の中にも広がりを見せていたが、その中には当時の社会の中で被差別者の扱いを受けていた癩病を患った者が、苦難の旅をしていたのも史実である。その病の癒えることを願って土車に身を任せ、人に助けを求めながらも想像を絶する旅を続けるが、ほとんどの者がその途中で行き倒れになったようである。現世では、想像を超える悲惨な旅も、この道に残る歴史である。  後白河法皇は、このような熊野詣に三十三回も出掛けた記録が残っている。鎌倉幕府を開いた源頼朝からは日本一の大天狗とも称され、権謀術策を恣(ほしいまま)にし一筋縄では行かぬ黒幕として思われているが、今様を集成した「梁塵秘抄」なる書物には熊野の歌謡も多く残した。こんな法皇が如何なる人物であったのか、興味をそそられる旅の思惑でもある。 一方、西国三十三カ所の観音巡礼の謂れは、大和にある長谷寺の徳道上人が養老2年(718年)に病死し冥土の閻魔大王より、「現世に戻り衆生を救うため三十三カ所の観音霊場を広めよ」との命を受け三十三個の宝印を授かった。そこで蘇生した上人はその命に従い動いたが、だれからも相手にされず狂人の扱いを受け、機が熟さないと思い宝印を摂津の中山寺に埋めてしまうことになった。その270年ほど後に、花山上皇が宝印を掘り出し観音霊場を開く巡礼の旅に出られたと伝わる。当初は、長谷寺に始まり三室戸寺に終わる道筋であったが、鎌倉、江戸時代と行政の主要地が関東へと移ることにより、この地から西方にある観音霊場として西国の名が付けられた。巡礼の道筋も伊勢参りより足を延ばして那智の青岸渡寺より始めることになって、紀州、河内、大和、山城、近江、山城、丹波、摂津、播磨、丹波、丹後、若狭、近江と観音霊場を巡って美濃の華厳寺で結願となる。そこから、関東への帰り道で、信州の善光寺へお礼参りをするのが主流になった。  いずれにしてもこの観音霊場を巡る旅は、その距離もさることながら道筋に難所が多く、「観音悔過」と言う観世音菩薩を本尊として自分の犯した罪を口先だけでなく身をもって行う懺悔の行として、まさに大衆に受け入れられた試練の道でもある。  ただ熊野は、神々が降臨した地であり、また神武天皇東征の上陸地でもあり、今も熊野権現がまします神の地であることより、この旅の始まりにはまず熊野三山への参詣を行うことにした。
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