序章

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 彼が自分のその運命に気づきだしたのは、放浪が始まって一年後。  彼と知りあう人たちは、どういうわけか次々と死んでいくのだ。彼が今の生活を楽しい、その人を愛しいと感じ始めると、相手は死ぬ。病気で、あるいはみずから命を絶って。  なぜ、そんなことになるのか、彼には理由がわからなかった。もしや彼が原因なのかもしれない(おれがあの人たちを愛したから?)と、思わないでもなかったが、それはまだ確信ではなかった。  最期まで彼を自分の息子だと信じて死んだダディー。  生きながら全身が(ろう)と化していく奇病におかされ、尊厳ある死を望んだハイリー。  船上で出会った初恋の少女は、生まれつき心臓が弱かった。そぼふる小雨の甲板で彼を待ち、あっけなく死んだ。  ローラは幼い彼とのあいだの子どもを生もうとして早産。そのときの出血がもとで死んだと聞かされた。  みんな、愛していた。ずっとそばにいてほしかった。  マイルーザも? マイルーザは少し違うだろう。  マイルーザはアルビノ。  その身体的特徴を神の申し子として神殿に買われ、自由を束縛された神殿長。  生まれたままの体では何年も生きられぬ虚弱体質で、幼いころから手術につぐ手術、全身を切り刻まれて育った。  外の世界にあこがれながら、神殿に生かされることでしか生きられなかった。哀れな男。  マイルーザはつれそいに彼を選んだが、彼はおとなしく捕まっているような少年ではなかった。反抗するたびに罰を与えられ、彼は神を憎み、神殿長を憎み、逃走した。マイルーザが彼に執着するのは、さみしいからだと、知っていたけれど。  一度は彼もマイルーザをゆるしてもいいと思った。マイルーザが謝罪し、そばにいてほしいと乞い願えば、そうしてもいいと。  彼が逃げだしたあと、しばらくして、マイルーザは死んだと聞いた。  そして、彼が愛しさのあまり追いつめ、殺した天使、ルーシサス。  ルーシサスを失ったとき、彼は悟った。  彼の愛した人は死ぬのだ。そう。きっと母を殺したのも、父の言うとおり、彼なのだ。  もう二度と、誰も愛すまい。  ルーシサスとともに自分の心も死んだと、彼は感じた。  彼が皇都のダンスホールで一夜の相手をさがす貴婦人にたかるジゴロになったのは、十七のときだった。愛のない愛をかわすことは、彼には楽なことのはずだった。  十年、ルーシサスの影を追いながら、死んだようにすごした。  だが、それでも出会ってしまう。わがままだが、めんどう見のいい後見人。バカ正直に彼を慕ってくる友人。母に似た、あの人。  彼らを愛することを止められなくなると、彼は失う痛みに耐えかねた。彼らの死がやってくる前に、彼はすべてから逃げだした。  この世のどこにも彼の生きる場所がない気がした。  彼はひきとめる愛人や友人の手をふりきって、この世の果てへ行くことにした。  この場合の『この世の果て』とは、国境の砦だ。  彼が退廃的にすごした皇都では、そこは人に顔むけできなくなった者が死ぬ場所と言われていた。そこへ行く者の多くは生きて帰らない。ガス燈とオペラハウスと伝統と最新のモードが入り乱れる皇都では信じられない話だが、そこには魔物が出るというのだ。  思えば、このあたりから少しずつ、彼はみずからの運命のなかへ身を投じていた。  馬と馬車を乗りつぎ、ひとつきもかけて辺鄙(へんぴ)な国境まで行くと、おどろいたことに、魔物はほんとにいた。  彼の母国ユイラ皇帝国は数千年の歴史を誇る世界の中心だが、一千年前まで、ごくあたりまえに日常に魔法がとけこんでいたという。その名残が砦にはあった。  砦の東一帯にひろがる人跡未踏(じんせきみとう)の深き森。そこから夜な夜な魔物がやってきては、砦を守る兵士を好きほうだいに殺していく。多くの場合は食糧として。兵士は防塞のためにいるのか、生贄としているのか、判断に悩むところだ。 「古い古い昔、もう古文書にも残らぬほどの昔、あの地に魔神の王が空より降りたという話です。そのせいで、あの地は侵され、穢土(えど)と化し、次々に魔物が生みだされたと言い伝えられます。空の王はいにしえの神々が滅ぼしましたが、大地の穢れはいまだ浄化されず、魑魅魍魎(ちみもうりょう)魔窟(まくつ)となっているのです」  砦の魔法使いはそう言った。  そんな場所だから、そこへ旅立った者が帰ってこないのは道理だ。  毎日、人が死んだ。そこでなら誰も愛さなくてすむと、彼は考えた。だが、じっさいにはそこでも彼は人を愛したし、そのためにさらに深い苦しみを味わった。  彼ももう自分の運命を知っていたから、愛した人を死なせないためには、愛していないふりをするしかなかった。彼が愛したというそれだけで死ぬのに、その上、ここでは人間の死はありふれたものなのだ。  男ばかりの社会で頻発(ひんぱつ)する種々のいざこざ(なにしろ彼は素晴らしい美貌の持ちぬしだから)に、さんざん手を焼き、泣かされたあと、彼は運命に対して最後の抵抗をした。  方法はたったひとつ。  愛する人を死なせないためには、彼がその愛をすてること。  彼が悲しみにつきおとされれば、残忍な運命の女神が慈悲を見せることを、彼は経験的に知っていた。  彼は愛しい人を遠ざけ、自身が喪失感に耐えることで、相手を生かす道を選んだ。最前の砦から、後衛の警備隊へ、その人を逃がした。 「おれの愛した人は、みんな、死ぬんだよ。嘘みたいだろう? だが、ほんとなんだ。だから……おまえは行ってくれ。いつか、おれの気持ちが変わり、ただの友人として会える日が来るまで、さよならだ」  彼は約束した。  その人が二旬に一度、輸送隊を警護して砦へ来るとき、窓辺に合図のリボンを結んでおくと。  気持ちが変わらないなら、赤いリボンを。もし愛が友情に変わったなら、そのときには青いリボンを。  窓ごしに見つめあうだけの数年が続いた。  窓には赤いリボン。まだ愛してるのサイン。  彼の窓から見える枝に、その人も結ぶ。同じ色のハンカチ。愛しさに身をひきさかれそうなのに、愛する人だけは、かたわらに置くことができない。  今度の喪失は深かった。  これから一生、こんな毎日が続くのだ。彼はまだ三十をすぎたばかりだった。彼が魔物に殺されず、順当に寿命をまっとうするなら、そのさき七十年は、こうして愛を押し殺して生き続けなければならない。  孤独だけが友。  こんな日々は耐えられない。  彼が自分の死を望むほど絶望していたころ、その幻を見た。  自分とそっくり同じ顔の男が、東の森を指さし、告げた。  ——かの地より、運命は来たる。  バカを言うなよ。  ここから東は魔物の巣窟だぞ。地獄の阿鼻叫喚のさなかから、どんな化け物がやってくるっていうんだ?  彼は白日夢のお告げをせせら笑ったものの、心の奥底では期待していた。  もうなんだっていい。  運命と直面できるなら、どうなってもいい。  このまま死んだように生きるぐらいなら、どれほど凄惨な運命でも、喜んで享受しようじゃないか。  彼は待った。  そのときが来るのを。  彼の名はワレス。  天馬の血を継ぐ者。
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