スクラッチ

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 周治さんは血の繋がりのない祖父で、私が十九才になる年の一月に亡くなった。センター試験を二日後に控えていて、正直すごく困った。その気持ちを見透かしたように母は「いいわよ、あなたは勉強の方をやりなさい」と、知らん顔でお通夜の支度を始めた。  周治さんはいつも和服だった。あまり毛の残っていないつるつるの頭にいつも同じ眼鏡をかけて、ふくふくとした様子で座卓の前に座っていた。昔は作家をしていたこともあったそうだが、二十年ほど新作を作らず、出版社からの声もかからなくなって、幼いころの私が「おじいちゃんもう作家やらないの?」と聞くと、「うん、そのうち書くかも」と言って庭の植え込みを眺めていた。  父を事故で亡くしたあと、母は私を連れて周治さんの息子の後妻になった。ほかの家族は母屋に住み、私と母は、敷地内にあるキッチン、風呂、トイレ付きの離れに二人で住んだ。  周治さんの奥さん(義理の祖母)は、夫と息子の食事の支度や洗濯、掃除など身の回りの世話をこまごまと焼いたが、孫の有(ゆう)に関しては、そのついで、という感じで、母屋に住む家族の中で彼だけがぽつんと浮いているように見えた。有はひょろっとした子、という印象で、おとなしそうな顔つきなのに、どこかいつも不安な表情を浮かべ、時々些細なことで激しく怒り出す。私のことも面白くなさそうな眼付きで見て、決して笑顔を浮かべることなく陰気な様子で無視するのだった。  先妻は好きな男ができて家を出た。九才で母親がいなくなった有への同情や世間体もあって、すぐ次の嫁探しが始まり、親戚や知り合いなどあちこちに誰かいい人はいないかと相談して母に縁談が来た。母は周治さんの古くからの知り合いの従妹の娘で、有が寂しくないよう私という娘がいたことも再婚の決め手になったらしい。  来た当初は、敷地内に家が二つあること(母屋と離れは渡り廊下でつながっていた)、おじいさんとおばあさんがいること、いきなり兄ができたことなど、変化が衝撃的で興奮した。四才だった私は、義理の祖父母に案外かわいがられた。  離れの戸を開け、渡り廊下を歩き、母屋の台所へ行くと祖母が「あら、花菜(かな)ちゃん、来たの?」と声を掛け、私はうなずき、椅子に正座して座り、テーブルに肘をついて祖母が野菜を切る後ろ姿なんかを眺める。そして簡単なことを手伝わせてもらったり、そのご褒美にジュースをもらったりする。そのあと廊下を挟んだ和室にむかい、閉め切られたふすまの前で、 「おじいちゃん、入っていいですか?」  と聞くと、 「はいよ、どうぞ」  と適当なような返事が聞こえる。幼児には重いふすまを開けて中に入ると、たいてい座卓の前で何か読んでいた。そこにはテレビもなく、子供には退屈な空間であったのに、開け放した掃き出し窓から見える庭がきれいで、何となく落ち着く。何も喋らなくても気にするふうでもなく読物を続ける周治さんのことを私も気にせず、しばらく外を眺めて過ごした。   周治さんは昼間仕事するわけでもなく、朝は六時に起き、家の周りを散歩しておかゆなどの軽い朝食を済ませ、午前中は読書したり庭を眺めたり、気が向くと昼前に自分で買い物に行き、野菜や魚や豆腐なんかをぶら下げて帰ってくる。おそばなどの昼食のあとは昼寝か読書の続き、時々外出してお友達や知り合いに会いに行ったり向こうが来たりして夕方には落ち着き、お風呂に入り日本酒と焼酎で晩酌して二十一時には寝ていた。人にはよく会うが、そうでないときは大抵一人で和室にいた。  周治さんの部屋にいるとだんだん退屈してくるので、そのうち離れから画用紙とクレヨンを持ってきて畳に寝そべり絵を描いた。周治さんは眼鏡越しに時々のぞき込み、それは、花か、とか、猫か、とか聞いてきた。  ずっと昔、この家には周治さんの知り合いとか、お弟子さんとかが一緒に住んでいたので、そういう人たちの寝泊まりのために離れは作られた。その時は部屋のみだったけれど、息子の再婚の際に改修して水回りも付けたのだった。母は夜、離れでお風呂を使った後、母屋にわたり、あたらしい夫の部屋に行く。翌朝早めに離れに戻ってきて、私の朝食の支度をした。その横顔は疲れていて、でもとてもきれいで、知らない女の人が来たみたいだった。  再婚から半年ほどたったある日、テーブルの上に置いていた財布を何気なく取り上げて中を見ると、先日買い物をした時よりおつりが少なくなっている。母は私が取り出したのかと思い、「花菜? このお財布に触った?」と訊いた。ううん、と返事する私の顔を見て、この子じゃない、と思ったらしい。そしてテーブル付近の空気がかすかに熱を帯び、その体温の残りかと思われるものの中に、わずかに混じる香りに気がついた。それは、母屋で使われているシャンプーの残り香で、そこで生活する彼らのそばにいるとかすかに漂う匂いだった。  大人たちがこの財布を狙うわけがない、と思った母は、とりあえず様子を見ようと、わざと同じ位置に財布を置きっぱなしにしてみた。  週一か二回の割合で、千円札が一枚ずつなくなる。まだ四才の私が上手にお金を使えるはずもなく、食べ物やおもちゃなど物が増えた形跡もない。母の疑念は次第に確信に変わっていった。  そんなある日、買い物から戻った母は、離れの部屋の中で、私に覆いかぶさる有を見て悲鳴を上げた。有はそのまま逃走、母はぼんやりぐったりした私を抱きしめ、大丈夫? 大丈夫? と泣きながら何度も聞いた。  もう我慢できない、とつぶやきながら、私を連れ母屋の周治さんの部屋に行った。座卓を挟んで向かい合うと、今しがた見た光景をありのまま伝え、財布のことについても事実を淡々と述べた。 「どうか、離れに鍵をつけてもらえないでしょうか」  と頼むと、周治さんは腕組みして考え、それは、だめです、ときっぱり言った。家の中に鍵をつけることはすなわち家族を信頼していない証というのが理由だったが、そもそも信頼できないことが起きたので、こちらをどうにかしないといけない。そこで、 「有をよそに出しましょう」  という、意外な結論を出した。 「こんなことを起こすような人間だから、奥さんと離別か死別した人で、娘のいない人を探し、できるだけ早く話をつけて、有を預けることにしましょう」 すると父親が警察官で、二人の息子が空手と柔道の有段者という家庭があり、有にかかる生活費を月々その家に振り込むことにしてお願いしたという。 一か月後、その警察官が突然、家を訪れた。有が家出したらしい。まだ九才の子供だし、行き先は限られる。学校の友人や先生宅を中心に当たってみたが、実の母親のもとにいるということが分かった。母親は数か月前に男と別れて、今は親子二人だという。 「先生、どうしましょうか」  警察官は周治さんに訊いた。 「そのままでいいでしょう」  短く答えると、警察官はお辞儀をして帰っていった。  この警察官は昔、素行が悪くてこの家に預けられていたことがあった。父親と知り合いだった周治さんが、裕福ではない彼の家からお金をもらうことはせず無償で離れに住まわせていた。当時は作家仲間や編集者が家に出入りしていたので、不良少年は彼らに面白がられて、話を聞いてもらったり聞かされたりした。その後警察官になり、周治さんとは年に二回くらいやり取りを続けているという。  有は新しい家に行ってもそう心根を変えるようなことはなかった。警察官を後ろ盾にして街のワル不良ヤンキーどもに睨みを利かせ、兄弟たちから武道を覚えて強くなろうと目論んだが、正義への熱い想いを持つ男たちとの価値観の相違から、居心地が悪くなり出て行ったと思われる。  その後、有の話を聞くことはなかった。母親のもとで、納まるべきところに納まったのだと、皆が思った。   「アッつい。蒸すねえ」  制服の白いシャツの第一ボタンを外そうか外すまいか迷ってその辺りに親指を置いたまま、イーゼル置き場の前でやる気スイッチが入らない私と真由はぼんやり突っ立っていた。すいません、という声であーこちらこそ、と邪魔になっていたのにやっと気付くと、道具を何も出さず窓際にのろのろ移動する。  衣替えが済んで二週間、やっと遅い梅雨入り宣言が出たとたん明るく晴れ渡る空。美術室は北向きの窓だから日光は入らないし風はわずかにくるが、室内の空気は春先とは比べ物にならないくらい蒸し暑い。生徒たちが授業で使う美術室は、放課後、美術部の部室となり、今日も一年生から三年生まで十人ほどがデッサンやコンクール出品の作品を描いている。エアコンもついているにはついているが、油絵具や溶き油のにおいがこもると具合が悪くなる人もいるので、夏休み中に学校に来て描く人がいる以外はたいてい窓を開け放して、一台しかない扇風機を回している。 「どうしよ。今日ノらなくない?」  マリメッコ柄のミニうちわで顔をあおいでいた真由がこっちを見る。うん、と答えると、じゃあ、屋上いこ、と言って立ち上がった。  さすが全開の空の下、開放感で長い長いため息が出た。フェンス越しに運動部のかけ声が聞こえる。下をのぞくと、野球部のグラウンドの隅で、制服姿のままバットを振る男子が見えた。 「わあ、またやってる」  後ろからのぞき込んだ真由があきれた声を出す。そして下の男子に向かって「おーい! めーわくかけてんじゃねーよ!」  と怒鳴ると男子は上を向いて 「うるせーよ!」  と笑いながら言い返す。そして、困ったようにもじもじする野球部の下級生に、じゃ、どうもね、と言ってバットを返した。上級生も加わる全体練習の前の道具出しのところだったらしい。真由の双子の弟の宗太は、近くに置いていたスクールバッグを持つと走って逃げた。 「アイツこの間はバスケ部の練習前に」  ちょっと貸して、と言って体育館の中で勝手にシュート練習をしていたという。  真由の横顔が走り去る弟を見つめる。高校生だからもう男と女に分かれていて、双子とはいえ言われなければそうと分からない。でも二人並ぶと、肌の肌理とか髪質とかが同じ感じで、やっぱり姉弟だと思う。真由は肩につくかつかないかくらいの長さのゆるゆるとウエーブした髪をハーフアップにして、同じ長さの、薄いブルーのリボンを垂らしている。衣替えしてからリボンの素材はシルクっぽいものに変わり、冬服の時はベルベット風だった。化繊だよーとは言うが、かわいく華やかでありながら制服から浮かないセンスはさすがだ。 「デッサン、やる?」美術室に戻るか聞いてみた。 「うーん、今日はいいや。花菜は?」 「あたしも、いい」  サボることに決めると心が軽くなり、二人で階段を下りて荷物を取って一緒に校門前まで出ると、アウディが停まっていて、運転席の窓に顔を突っ込んでいた制服姿の男子が、ふとこっちを見た。一瞬、なんだよ、と言いたげな表情をしたがすぐ運転席に向かって、じゃあねー、と手を振るとくるりと背を向けて歩道を歩いて行った。 「……のヤロー」  と宗太の背中を見て真由がひとりごちると、運転席から手を振りながら、真由ちゃーん、花菜ちゃーん、と呼ぶ声がした。サングラスをかけ、くるくると巻いた髪を優雅に二の腕までたらした真凛さんがこっちに手を振っている。 「まりんさーん」  表情を一変させ、満面の笑みになった真由が、スクールバッグを肩にかけなおして両手のひらを振り、最上級の喜びを表した。真凛さんは宗太の年上の彼女で大学二年生。ママの買い物用のセカンドカーだというピンクのアウディを乗り回して、空いた時間は買い物やお使いや送り迎えなどをしている。  乗ってかない? とジェスチャーをする真凛さんに、今日はどこ行ったんですか? と聞くと、 「これから、花菜ちゃんのお宅にお邪魔するところなの」  と、後部シートを指した。淡いベージュの地に金茶でFelizと印字されたショップバッグが置かれている。そういえば、と思い出して、真由と二人で後部座席に座った。  真凛さんのおうちは美容室を経営していて、店名のFerliz(フェリス)というのは、スペイン語で幸せを意味する、らしい。うちの母と祖母がこちらのお世話になっていて、母が使うシャンプーとコンディショナー、ヘアパックのセットを注文したと数日前に聞いていた。七、八年くらいのお付き合いで、真凛さんのフットワークが軽いことから、こうやって届けに来てくれることもしばしばだ。ありがたい。もっとありがたいのは、このめちゃくちゃかわいいピンクの車に乗せてくれること。そして、きれいな真凛さんの近くにいられることだ。真由もこうしておとなしくしていると美少女なのに、宗太がいると弟から目を離せない姉の顔になって、乱暴な口の利き方になる。  さっき、宗太は真凛さんとキスしていたと思う。    真由も一緒に、真凛さんと母屋のリビングにあがった。夏用にソファのカバーを変え、テーブルもガラス天板のものに先週取り替えたばかりで、部屋の中は急に明るく、きらきらした雰囲気に変わった。母と祖母も出てきて、真凛さんが注文の品物を渡すと、北海道のお気に入りのメーカーから取り寄せた、ピスタチオと苺のムースと、氷がたっぷり入ったアイスティーでお茶の時間となった。ムースの底には、アーモンドのさくさくした薄い生地が敷かれている。お客さん用に、お菓子は大抵ホールとか箱詰めで多めに買っておくみたいだ。 「ねえ、真凛さん、あたしのカラーまだ持つかしら」  祖母が訊ねると真凛さんが後ろに回ったり、横からのぞき込んだりして、「あと二週間は大丈夫だと思います」」「そお?」などと会話をしていた。 「この間、見たわよお」  母がアイスティーのグラスから薄く光る唇を離して言った。 「なんか、かわいい彼氏がいるのね?」  隠すつもりも見せびらかすつもりもなかっただろうが、目立つ真凛さんの行動はよく話題にあがる。真由を見ると、ちょっとドキドキしたような顔をしている。付き合い始めて二か月というから、彼氏が真由の弟ということまでは、まだ母や祖母にはぎりぎり伝わっていないみたいだ。真凛さんは曖昧にうふふ、と笑い、母たちは、いいわねえ、と冷やかした。  帰り際に見送りに出たとき、真凛さんのふわりとしたスカートの裾と、踵の高いきれいな靴の後ろ姿が強く目に焼き付いたのを覚えている。真由も振り返って、母と祖母に会釈して、じゃあね、と私に手を振ると、家まで送ってくれるという真凛さんの車に乗った。車の中で二人は、宗太を主なネタにして、私の知らない話をたくさんするのだろうと思うと、ちょっとうらやましいような、悔しいような気がした。  家の中に入ると今度は周治さんの部屋からお客さんが出てきて、帰るところだった。 「ああ、花菜ちゃん、おかえり」  今までずっとリビングでお茶していたけれど、こんにちは、と愛想よく答える。 「僕なんか、学校も出てないよ。美術部で毎日勉強してえらいねえ」  ふさふさした白い眉毛を下げて画家は言った。この人は昔、周治さんの作品の挿絵を描いていたことがあって、その縁で仲良くなり、時々うちへ遊びにくる。今日なんかさぼってしまったのに、私はうふふ、とさっきの真凛さんみたいに曖昧に笑って、周治さんと一緒に再びお見送りに出た。  夏休み近くになると三年生は放課後、デッサンの特別指導を受けるために一、二年生の部活動とは別の教室を借りて、夜七時くらいまで学校に残っている。  人数が減って、少し寂しくなった美術室では、上級生の張りつめた雰囲気の影響を受けた下級生たちが、ひそひそと進路について話したりしていた。  この高校から美術系の大学に進学する人の多くは、地元の大学の美術教員養成コースを受験する。そのためのデッサンなら、放課後の特別指導で大抵クリアできる。美術の先生なら将来安定だし、親も反対する人はほぼいない。けど、より高い意識を持つ、東京の私大や芸大なんかを志望するような人は県外に出なければ満足のいくレッスンは受けられない。 「一年生からそういうの行くってさあ」  机に腕を組み顔をのせた真由が唸る。気持ちはわかる。行けるなら行ってみたい。ちょうど、東京の大手美術予備校の夏期講習を受けに、夏休み中は親戚のうちに泊まりに行くという下級生の話をちらりと聞いたばかりだった。羨ましいのと、そこまでやる? という妬みが混じっているのは、まだ自分の気持ちが定まっていなくて、つい一昨年、高校受験で全力を使い果たしたばかりなのにまたあれをやるのかい、と思っているからだ。一年生なんか去年それをしたばかりだろうに、よくやるなあと思うが、いずれ自分たちも本腰を入れなければならない時が来る。今後人生で、そういう覚悟を持つ場面がいくつ出てくるのだろう。 「ねえ、これ、すごく好き」  真由が私が開いてる画集をのぞき込んで言った。京劇をモチーフにしたイラスト集で、化粧を施し鮮やかな衣装をまとった美しく華麗な人物のオーラは実際のページよりもはるかに大きく見える。BSで特集を観た時からファンになって、好みに合う絵を描くイラストレーターに出会えて私は幸せだ。美しい色を見るとわくわくする。 「貸そうか?」と聞くと、 「うん、でも、もし汚したらめっちゃ悪いし、一緒に見させて?」  とかわいいことを言う。先輩たちが辛そうな顔をして嫌々臨む石膏デッサンなんか、できればやりたくない。高二の今だって静物も人物も白黒の濃淡だけでリアリティを表現するなんて苦手なのに。実際は色彩もあって成り立つ世界なのだから。   終業式の日はまだ梅雨が明けず、昼間なのに空が暗くて、下校する生徒たちは雨が降る前に足早に教室から出て行った。  美術室から見える裏門からも、バス停に向かっていつもより駆け足になっている人たちが見える。雨が降る直前の空は暗い灰色になり、遠くだけが不気味に光っている。大きな雨粒がぽつ、と最初に落ちると、それが合図のように次々と重い雨粒が落ちてきた。  窓を閉めてもガラスに打ち付けてくる激しい雨に、部員たちは描きかけのキャンバスを放って窓辺に集まり、雨の様子を眺めた。バスに乗り損ねてずぶ濡れになる数人の生徒たちを見て、「かわいそう」「あ~気の毒……」とか、つぶやきが漏れる。あれじゃあバスが来て乗れたとしても、車内でどうするんだろう、と真由に言うと、たぶんほかの乗客も濡れてるよ、と外を見たまま答えた。濡れた服や靴、カバンなんかを気にしながら互いに平静を装うのだろう。 「ちょっとお、真凛さん、婚約してたんだって!」  美容室から帰るなり母が興奮して言った。私は夏休みに入り、エアコンの効いた涼しい離れの居間で、ソファに寝そべり画集をめくっていたが、その手を止め顔をあげた。 「お祖母(ばあ)ちゃんと一緒にFelizに行ったんだけど、週末はお店が忙しいからいつも真凛さんがお手伝いしてるじゃない? でも今日はいないから、どうしたの? ってお店の人に聞いたら、婚約者がいるシンガポールへ行ったんですって!」 「婚約者?」 初めて聞いた単語みたいに、変なイントネーションで聞き返してしまった。 不動産ディベロッパーに勤めている人と去年婚約して、その人が半年前から赴任しているシンガポールへ遊びに行ったらしい。真凛さんのママが言うには、大学も休みになったことだし、たまには顔を見せに行きなさいとお尻を叩いたということだ。  そこまで一気にまくしたてると、ちょっと気が済んだのか、 「やるわねえ、まあでもきれいな子だから、いろいろ楽しくっていいわねえ」 と、帰りに立ち寄った百貨店の袋を開け、地下で買った鰻をキッチンのテーブルの上に置いた。 宗太の顔が浮かんだ。このことは知っているのだろうか。真由は? 確かめた方がいいような、言わない方がいいような複雑な気持ちで黙り込んだ。 もうひとつ、真凛さんに関するうわさが浮上した。 一週間前に起きた事故の話だ。隣県の埠頭から車が海中に転落して一人が亡くなったが、一命をとりとめ入院していた人へ捜査が入り、事情が割れだして、亡くなったのは真凛さんだという話が広がりだした。 それをホテルで友人たちとお茶したときに聞いた祖母と母は、その場では穏やかに過ごしたであろう反動から、家に戻ってから、シンガポールで楽しくやっているはずなのに、ひどい噂を立てるものだと憤慨した。 「真凛さんのママから直接聞いた話の方が正しいに決まってるでしょ」  と怒ったり呆れたり、 「そりゃそうよ、真凛さんに嫉妬してるにしても、あんまり馬鹿にした話じゃない? ひどすぎるわ」  と、まるで自分の親族の事のように心を痛めている。  でも、こっちが本当だった。最初のうちは事故扱いで、真凛さんの家族が名前を出さないよう頼んでいたが、生き残った人が「心中したかった」と言ったことから事件扱いに代わり、警察とマスコミから実名が漏れた。  途端にFeliz近辺が騒がしくなり、お店はしばらく休業することになった。うちでもどう対応すればいいのか迷っていたようだが、二、三の知り合いが連絡を取ったりお悔やみに行ったりしたら、案外冷静に対応されたと聞いて、祖母と母と私は真凛さんのおうちを訪ねた。ガレージに止まっているピンクのアウディが、華やかだった真凛さんを強烈に思いださせて、一層悲しい。直々にママが迎えてくれたが、悲しみにずっと浸りっぱなしでいる顔をしていた。最初のうち、嘘をついてまで明るい知らせを触れ回っていたのは、そう錯覚できるよう自分たちにも言い聞かせていたのだろう……でも、ばれなければ、「真凛は結婚してここにはおりません」と言い、死んだことを隠し通すつもりだったろう……その方が、内心は乱れ頭の中も混乱し続けただろうが、そんなことが長く続くよりは、現実を受け入れ心静かになった今の方が、まだましな気がする。  すでに家族葬は済ませ、私たちはこれまでのお礼を丁寧に述べられた。捜査で分かっているのは、事故当日の海の日(本当に悪い冗談だが)の深夜、真凛さんが同乗していたブガッティが港湾の立ち入り禁止区域に侵入し、視界の悪いところで高波に襲われ転落、その前日に美容業界の仲間内でM市の街中のホテルの一室を借りてパーティーが行われていた。ホテルから埠頭まで車で三十分。運転していたのは、その仲間の一人だという。  婚約者がシンガポールにいて、半年間会っていないというのは本当で、真凛さんが会いに行ったのだけが家族がついた嘘だった。その婚約者も一時帰国してここへ来て手を合わせた後、実家と話し合いがあるから数日間滞在すると言っていた。双方の家でこれからいろいろあるが、とにかくこちらに来てくれたのがうれしい、とママがぽつりと言った。  心中したかったと言った人は、婚約者の存在を知り、正気を失って道連れにしようとして自分だけ生き残ったということか……。そんなことを考えて部屋の中を見ると、後飾り祭壇の白布が妙に艶々と白く、両脇に添えられた青と白の八重咲きの花束もまるでそこに真凛さんがいるような美しさを思わせた。 そしてふと隅に、ゴールドの樹脂製の額に収められたデッサンがあることに気がついた。鉛筆で描かれた真凛さんが椅子にもたれている絵だった。 「素敵な絵ですね」  同時に気づいた母が静かに言うと、真凛さんのママが、 「あの子の部屋から出てきたんです。あまりにもきれいに描いてもらえて、どなたから頂いたのかわからないのが残念で……」と、刺繍のついたハンカチで目頭を押さえた。私はそのデッサンから目が離せなくて、じっと見つめた。  このことを話し合わないのはかえって不義理だ。黙っていられず真由にLINEした。  ―真凛さんのこと知ってる?  ―うん  ―宗太は?  ―うん  シンプルすぎる。気丈さも何もない。 ―そっち行っていい?  ―うん だめだ。  中学のときは学区が違った。バスを乗り継いで一時間くらいでマンションに着き、インターホンで呼び出しエントランスのオートロックが開くと、まっすぐ七階までエレベーターで上がった。  ここの方が高校から遠いから来たことは一、二回くらいしかなかったけれど、玄関ドアを真由が開けた途端、家の中が異様な雰囲気に包まれているのを感じた。両親は外で働いていて留守なので、家の中には双子の姉弟しかいない。 「宗太がずっと部屋にこもっているの」 その姿の見えない無念の情のようなものが部屋を覆っている気がする。 「大丈夫?」 「あたしはね。でも」  視線が閉め切られた部屋のドアに向く。 「真凛さんのおうちに行ってきたけど、一緒に誘えばよかった」 「この状態じゃとてもいけないし、いいよ」 「婚約者がいたのは知ってた?」 「え?」  聞いた事情を始めから説明したが、うなずくのを見ていると、ニュースで見た死亡事故の事しか知らないようだ。 「宗太も知らなかった?」 「だってあたしは真凛さんと知り合いというか、それだけなんだけど、宗太は違うし……よくわからない」 「婚約者の人も来たそうなの……あ、なんか、きれいなデッサンがあった。真凛さんを描いたやつ」 「真凛さんを描いたデッサン……」と考えるように小声で繰り返すと、 「え、ちょっと待って」  と急に立ち上がり、 「宗太」と部屋のドアを叩き、 「入るよ」と返事も聞かずに入っていった。開いたドア越しに、ベッドの上に力なくのべられた裸足が見える。反応もなく寝そべる弟を放って真由が何やら物色し、B3サイズのデッサン用スケッチブックを持って出てきた。 「なにそれ、真由の?」  かぶりを振って開いて見せた中には何枚ものデッサンが、白黒で緻密に美しく描かれている。 「これみんな、アイツが描いたの」  中に真凛さんのデッサンがあった。祭壇の中にあったものとそっくりな、ポーズが違うものが何枚もあった。右下に“SOW”とサインがあるのも同じだ。 「なんでこんなにうまいの?」  美術部にも入っていない、学校では適当に遊んでいる宗太からは想像できない。 「昔から、絵は宗太の方がずっとうまかった」  限りなく白に近い淡いグレーから漆黒まで、無彩色なのに極彩色と思えるような、あらゆる階調の白と黒が描き分けられ、一枚一枚、気を抜くことなく完成させたスケッチブックそのものが、宗太の画集になっていた。   絵を見せながら真由が言った。 「あの子には、ほかの人にはわからない、ものすごく淡い影がはっきり見えるの」小学生の時に眼科で検査して、色弱であるのと同時に、ものの見え方にそういう特性があることが分かったという。 「なんで今まで教えてくれないの?」 「本人が言うなって」 「こんなに上手いのに?」  真由は声を落とした。「みんなと違うことが嫌だし、それがばれることが怖いの」  そして気遣うように部屋の方を振り返った。「でも絵は好きだから、ずっと一人で描いていたの。内緒にしてね」  開いたままのドアに目をやったが何の物音も反応もない。でも空気の静けさから、宗太は会話を聞いていると思った。  祖母が揚げ物を作った日は、母屋から食事に呼ばれる。今日は天ぷらを山ほど盛った皿を中心に、ひたし豆やきんぴらも並び、めずらしく父が一緒に食卓に着いた。  父は教育関連事業で働いている。平たく言うと、資格を取らせたり、専門学校の運営、コンクールの開催、等々、『未来を切り開く』がキーワードの業務だ。  外を出歩くのが好きで、週末もあまり家にいない。ゴルフや日帰り旅行に、友人や知り合いとよく出かける。平日も帰りに外で食べてくることが多い。深夜になることはあまりなく、軽く飲んで誰かと話をして、帰宅するとまっすぐ母屋に行きお風呂を使い、自分の部屋でひとり寝る。私と母がここにくる以前から、そういう生活をしている。  真凛さんの知り合いということで、家族は警察からいろいろ聞かれていたが、直接の知り合いでもない父や周治さんも、なぜかそれに含まれていた。   大方を食べ終えると、父が残りのおかずをつまみにウイスキーのロックを飲みながら、 「どうも、有が関係していたんだな」  と言った。祖母と母と私はぎくりとしてそちらを見た。周治さんは下を向き日本酒の入った猪口を眺めている。 「真凛さんと海に落ちたの、あれ、有なんだよ」  誰も何も言わず、次の言葉を待った。飲みながら父が話す内容はこうだった。  有はいま二十二才になり、エイジングケア商品を販売する会社に在籍している。パーティーがあった時にホテルの部屋にいて、眠る人やまだ飲み続ける人で三々五々になる頃、二人で抜け出し有の車で埠頭へ出かけた。飲酒運転だった。 「真凛さんは妊娠二か月だった」  婚約者のではなく、有の子だった。ものすごく酔っていたこともあり、堕ろす、堕ろさない、産む、産まない、別れる、別れない、と停めた車中で揉めているうちに波にのまれた。  聞いていて具合が悪くなってくる。食事の後なんかじゃなくお茶の時間にでも話せばいいのに。 「心中したかった、という言葉は有の心のうちのことで、実際は限りなく事故に近いが……」酔わないと話せないのか父は何度もグラスに口をつける。私はお兄さん、なのか、有さん、なのかどういえばいいのかわからないことに気づいた。一緒に住んでいた半年の間、有は私を無視し、私もおはよう、みたいな短い挨拶をわずかに投げかけただけで、話をしたこともなければ互いに名前を呼び合ったこともなかった。 「有、さんは、どうなるの?」  心配して聞いたのではなく、あの男が今後どうなるか知りたいだけ。 「飲酒運転くらいかな、問われるのは。でも現行犯じゃないし書類送検だろう」  その後、真凛さんの家への謝罪や慰謝料をどうするのか、有の血縁である父と祖母と周治さんは、こちらからも何とかする、という方向で、時々和室で話している。    日中は暑く、しんとしている。誰も外に出てこない。  四、五人の美術部員が、九月の学祭に出す絵を描きに来ていた。部屋の真ん中に置いた扇風機が首を振るたびに、遠くからゆるい風が吹いてくる。時々タオルで顎のあたりにたまる汗をおさえてキャンバスに向かうと、油絵具のにおいがむっと立ち、ぼうっとしているのか、集中しているのか、わからなくなってくる。  スケッチをして、デッサンして、構成して、色を決めて、下書きをして、習作を作って、という手順が面倒くさい具象画を描く気になれない。絵具を全色パレットに出し、塗っては描き、削っては拭き、を繰り返し、色だけの世界に没入する。  小さいサイズの抽象画が四枚ほど出来上がりそうなある日、真由がハーフアップなんてお洒落はせず、肩までつく髪を後ろで一つに縛り、私服のTシャツに制服のスカート姿でむっつりと部室にやってきた。  おはよ、と(昼過ぎだけど)手を挙げると、真由も、うん、と力なく返事をし、イーゼルを持ってきて、私からふたつ離れた椅子に座った。脇に置いたトートバッグからスケッチブックを取り出すとそれを広げ、スマホの画面を見て何か描き始めた。 「久しぶりぃ」と、前を見たまま声を掛ける。 「うん」真由の返事は以前のLINEと変わらない。 「なに描いてんの」  んー、と言いながら見せたのは、道端の野良猫の画像だった。適当に撮ったようなアングルが真由のやっつけな気分を表している。 「……かわいいね」心にもないことを言う。 「うん」気のない返事をしながら、B2の鉛筆でスマホの猫をスケッチブックに拡大描写している。  あの有が真凛さんと一緒に死に損なったと思うと、宗太にも真由にも申し訳なくて私も気持ちが晴れない。  真凛さんの家から戻ってきた祖母が着替えを済ませると、自分で淹れたお茶をリビングで一口飲み、ふーっとため息をついた。有と、有の母親も一緒だったらしい。 「お疲れさまでした」庭の水やりを終えた母がタオルで手を拭き、自分の分のお茶をキッチンから運んで祖母の向かいに座った。 「あちらのご様子は、いかがでした?」 「まあ、ねえ……」浮かない顔で言葉少なだった祖母は、しばらく間をおいて話題を変えた。 「久しぶりに会ったけれど、玲子さんは、痩せたところ以外はあまり変わってなかったわ。有は、ずいぶんまともな身なりをしていたけれど……」と、言いよどむのを、母はうなずき、黙って聞いている。  「玲子さん、お付き合いしている人がいるんですって。あの人も働いているでしょう? 一緒に住んだり結婚はしていないけれど、男のひとが途切れない人ね……」 「有さんは、どうしています?」 「退院してから会社も辞めて、部屋にこもっているんですって。今日はやっと引っ張り出してきたと言ってたわ」  自分で家を出て行ったのに、どうして祖母たちは、この親子とともに謝罪しに行くのだろう。慰謝料も、有の母親からお願いされたのか、こちらから申し出たのか、いずれにしてもずいぶん親切だ。 ふと、有の子を妊娠している真凛さんが描かれた絵を思い出す。宗太はそのことを知っていたのか、いないのか。 静かにしていた蝉がじわじわと鳴き始める。  父も、有の母親と会っていると祖母が話した途端に、辺り一帯に蝉の声が広がった。 「お祖母ちゃんは、はっきり言うことで、うしろめたいことは何もないと私たちに示したかったのよ」  離れに戻ってから、そう言って母が私を気遣った。母だって面白くはないだろうが、内心をあまり表に出さない人だ。 真凛さんの家への誠意よりも、血縁を守ろうとしているように思える。今までも誰かが定期的に連絡を取っていたのではないだろうか……、無事を確認する、近況を知る、という意味で。  有のことは、揉め事や事件が起きても、自分に関係のないことなら、大して気にしなかった。そういう人だと思って流せた。自分の家のことも、ほかの事なら、別れた家族にも思いやりがある、くらいには思えた。  でも、真凛さんに関わったことで、宗太にも、真由にも影響を与えた。ものすごく迷惑な奴だと思うし、庇う家族も嫌になりかけている。 そう考えるといてもたってもいられなくなり、立ち上がって離れのドアを出た。渡り廊下を足早に過ぎ、和室の前に立つと、「おじいちゃん、いいですか」と声を掛けた。 「はいよ、どうぞ」と返事がして、ふすまを引いて中に入り、背をかがめてiPadの上に指を置く周治さんと座卓を挟んで向かい側に正座した。 「有さんのことで、詳しくは言えないんですけれど、私の友だちも迷惑しているんです」  周治さんは顔をあげ、眼鏡の奥から私をまっすぐ見返した。次の言葉を待つように無言のままだ。 「真凛さんの知り合いが、今回のことで傷ついているんです」 「……」 「有さんを助けることに納得がいかないんですけれど」  ふん、と短い息をつくと周治さんは、 「その人たちに花菜は何と言っているんだ?」 「何も言ってません。有さんが私の兄とは言えないでしょう?」 「それはそうだ」  と、ずっと丸まっていた背骨を伸ばすように胸を張り、 「関わりを持った人との付き合いを、安易に断ち切ることはできないよ」  という静かな声に、ぴしゃりと叩かれた気がして、私は分かりましたと言い残すと、立ち上がって和室を出た。 「嫌いな人でもできた?」  耳の下で小さいツインテールにした真由が顔をのぞき込む。 昼間からひぐらしが鳴く部室で、抽象画の直しをしていた筆先が止まった。 好きな人ができた? なら聞くけれど。うきうきしているとか、楽しそう、とか、きれいになった、とか。つまりその逆で、今の私は、沈んで、つまらなそうで、ブス……。 「そんなことないよ」心の声を否定しているとも真由の問いの返事をしているともつかない答えが口をついて出た。 「なんか最近あまり笑わないよね」  そっちも沈んでたし、と思ったが口には出さなかった。少し前に比べると真由は気持ちが落ち着いてきたようだ。二人でだんまりしていると、 「ねえねえ、ちょっと、お二人さん」 と、軽い調子で声を掛けられて振り向く。八重歯をのぞかせてにっこり笑う副部長がすぐ後ろに立っていて、前髪とサイドをゆるくたらし、白いシュシュでまとめたポニーテールを揺らしながら小首をかしげて、「ポスコン、出す?」とかわいく訊ねてきた。アイドルのコスプレが好きな人で、うちの学校のブレザータイプの制服に飾緒やフリルをその時の気分でつけてみたり、チェックのプリーツスカートにリボンをあしらってみたりとおしゃれへの関心が高い。  ポスコンとは、毎年行われている、高校生対象の県内ポスターコンクールのことだ。 「いつ締め切りでしたっけ?」 「九月の中旬。学祭に出すのが描き終わったら、やらない?」  もうすぐ新学期だ。んー、と真由と顔を見合わせていると、 「人数足りないんだよね。美術部からは少なくとも三人は出品してほしいんだけれど」 「そんな規定があったんですか」 「まあ、いちおう慣例っていうか、あるんですよ。で、どう?」 この笑顔が憎めないと、下級生から人気のあるキメ顔を作って迫ってくる。 「考えてなかったです~」 「あと二週間あるでしょ。楽勝楽勝、よろしくね」  調子よく最後だけアニメ声で言い残すと、美術室の壁に貼ってある応募要項を指さして、自分のイーゼルへと戻っていった。  B4サイズ縦の淡い青色の紙には、  テーマ・「飛(跳)ぶ」と大きく書かれ、その下に、  締め切り日・九月十五日(水)  結果発表・十月十三日(水)  展示期間・十月十六日(土)~十月二十四日(日)※十八日(月)休館  展示会場・T美術館 第二展示室……、とある。  去年は一年生だからスルーしたし、今年は私も真由もプライベートでいろいろあって、それどころじゃなかったから、すっかり忘れていた。 テーマを見て、宗太の描いたデッサンの中に、ニケがあったのを思い出す。 エーゲ海のサモトラケ島で発見されたニケは、ギリシア神話の女神で、頭部と両腕がなく、翼の生えた二メートルを超える大理石像だ。複製の石膏像がデッサンで使われたりするが、あまりにも大きいため設置されている学校や施設は限られている。 「宗太はニケをどこで描いたの?」 「なに? いきなり」 「このテーマを見たら、思い出して」 「ああ、うちらの中学で、五十センチくらいのレプリカを美術室に置いていたけれど、確か、宗太が二年生の夏休みに勝手に教室に入って描いたんだっけ……、私も一緒だったから覚えてる」  石膏デッサンをするときは大抵、首像や胸像を選ぶ。翼やドレスの襞が複雑で、観察も描くのも難しいニケを選ぶ人はあまりいない。ふざけて漫画っぽく描く人はいても、中学生でまともに取り組むなんて、相当、腕に自信がないとできないはずだ。  もし人に見せたら、スケッチブックのほかの絵同様、強い印象を与えるだろう。宗太の絵は、もっと人に見せて、認められるべきだ。 そう思った途端、なんとなく考えついたことなのに、ぜひやらなければいけないような気がしてきた。でも、本人は、内緒にしてほしいみたいだし……。  応募要項にもう一度目をやる。協賛は、父が勤める会社だ。実際に審査をするわけではないけれど、きっと何かの縁だろう。と、考えて力をもらう。 「宗太に描いてもらうのって、どうかな」 「は?」 「すごくうまかったじゃない? あのニケの翼」 「でも、『飛(跳)ぶ』がテーマで、翼って、ベタだよ」  その通り、応募作品の中に多くの翼や羽の絵が並ぶだろう。 「たくさんある中でも、宗太の絵は目立つと思う。もう一度描くのが無理なら、あの絵をコピーして、真由がコラージュして出すのとか、どう?」 「なんでそこまでするの?」  目立ちたくないというからそうさせているのに、と言いたげな冷たい声だ。でも、私もなぜか引き下がりたくない。 「あんなにうまいのに、一人で描いて、満足していると思う?」  周治さんが有との関係を断ち切れないというなら、私も宗太を放って置くわけにはいかない。大人たちへの対抗心なのか、今まで心の中でもやもやしていたものにけりをつけたいのか、自分でもよくわからないが、この状態のままでいるのは嫌だという強い気持ちが湧き上がっていた。  翌日、真由は宗太の絵をスマホで撮ったものを見せてくれた。 「私の名前で出すなら、絵を貸してもいいって」  カメラ越しに映ったニケの姿は、生き生きと翼を振っているように見える。 「やっぱり、うまいよね」 「なんか、妙に乗り気だったよ、アイツ……。それで、私にアイデアがあるんだけれど」 「何?」 「花菜が最近描いていた抽象画と、宗太の絵を組み合わせてみたいんだ」 「いいよ。真由プロデュースね」  普段なら自分の作品を他人の名前で出したりすることは絶対にないけれど、真由が積極的になってくれたことがうれしいし、この姉弟のために何かできることがあれば、私の気持ちも救われるような気がした。  宗太と私の絵という、出来上がっている素材をただ組み合わせるだけなのに、それぞれのサイズや角度や配置を変えると、選択肢が無数にあった。最初から一人でイメージを画き出すのとは違う。  宗太の絵がいいだけに、これを道具として生かしつつ、これだけにならないよう私の絵を組み合わせること。それが難しいからと真由に頼まれて手伝い、画像を取り込んだパソコンの前で額を寄せ合った。  ポスター一枚から入稿できる印刷会社を東京で見つけてデータを送ると、数日後に完成品が届いた。送料も含めて、料金は二人で折半した。  提出作品は、美術部の顧問が学内で集まったものをまとめて主催者側へ持ち込む。締め切り日の午前中に、先生に作品を手渡し、「もう、ぎりぎりなんだからあ」というぼやきを聞いたあと、私たちは達成感と安心から、がくっと力が抜けた。  ある日曜日、仕事仲間との日帰りツーリングから戻った父が、シールドのついたジェットヘルメットを抱えてリビングを通り、奥にある自分の部屋へ入ると着替えをもって風呂場に行った。  まだ紅葉には早いが、観光客で混む前に、山奥の川と高原を結ぶ有料道路を走ってくると、昨夜、母から聞いていた。  風呂から上がると、薄手のスウェットに着替え、冷蔵庫からビールを取り出し、グラスを手にリビングのソファに座って、大きく足を組んだ。  正面の大きな窓から見える庭に、初秋の夕方の光が、低木の葉の上に金色に反射して眩しい。目を細めながら冷えたビールをおいしそうに飲む父は、気分転換のうまい世渡り上手に見える。  狭い離れよりもこちらのリビングがいいと思う時、私は母屋に来てごろごろする。床の上に大きいクッションを敷き、さっきから地元ユーチューバ―が昨日アップロードした「地元あるある動画vol. 8」を観ていた。  周治さんは少し前から頭痛に悩まされていて、血圧も高くなっていることから、循環器系の病院に行き、薬をもらって飲んでいる。今日も散歩に行き、戻ってから、和室で休んでいた。 「なあ、花菜」 「なに?」スマホから顔をあげ、窓を眺めている父を見る。 「君の学校の美術部から、ポスターコンクールにいくつか出品してるだろう?」 「うん」 「なんとか真由ちゃん、っていう子はいる?」 「いるよ」 「ちょっと評判になってるよ」  今日、父と一緒にツーリングに行った仲間のうち、ポスコンの主催をする私立美術館の職員が、仕事が休みなので一緒に来ていた。 「なんかこう、いきなりガーンっと飛び込んでくるんだ……、普通、高校生って、うまい奴はうまいけど、高校生なりっていうか……。でもあれはインパクトがすごくて、夢に出てきそうな感じ」  とかなんとか、展望スペースにバイクを止め、皆で休憩しながら雑談しているときに、ふと話題になったらしい。 「めちゃくちゃうまい白黒の翼の絵と、やたら派手な抽象模様を組み合わせた、なんだか妙に生気に満ちた作品が、審査員たちの印象に残っているそうだが、僕にはよくわからんが……」  真由の名義で出した作品のことに違いないが、事情を話すわけにもいかず、それ、私たちの! と言いそうになるのを喉もとでこらえて、ふーん、とそっけない返事をする。やたら派手な抽象模様で悪かったな。 「それだけ話題になっているってことは、入賞の可能性もある?」 「うん、それが、一席と二席はもう決まっているんだな」 「審査がもう済んだの?」 「いや、最初から誰がとるか決まっている」  祖母といい、父といい、余計なことをぺらぺら喋る。  私はクッションの上で仰向けになり天井を眺めた。中央が折りあげになっていて、隅に間接照明が仕込まれている。夜は柔らかい光を放つその空間は、夕方の今、形状に沿った立体的な陰影を描いて見せるだけだ。 この人たちは、聞けば素直に教えてくれるだろう。 「あのさ、お祖母ちゃんが言ってたけれど、お父さん、有さんのお母さんと会っているんだって?」 「うん、一回だけ、有の相談をした。それっきりだよ」  私はクッションを抱えて、渡り廊下を歩いて離れに戻った。母に話して安心させたい気がした。  展示室の一番奥の壁に、入賞者の作品が掛けられている。一席の作品を中心に、両脇に二席と三席が置かれ、そこから佳作、入選の順に、下位に行くほど入口近くに作品が展示される。三席の絵の前に立って眺めていると、「なあにい? まゆまゆの作品の方が全然いいじゃない」と呆れたような声が聞こえて振り返る。 「一席と二席って、つまんない絵。やっぱり出来レースって噂は本当なのかしらねえ」  とさらに言い募ってから、その人は私に向かって小さく片手をあげ、隣の宗太に軽く会釈をした。今日は、フリルの白いシャツにレースアップブーツという華奢なアイテムを、細身のカーゴパンツと後ろで一つに縛った長髪、黒縁メガネで引き締めて、ランウェイを歩くモデルのように、でも、モデルよりずいぶんゆっくりと、長い足を交差させながらほかの絵を見回り始めた。展示室内にいる人たちの視線を集めながらも優雅に無視する姿は、歩くスノビズムだ。 「あの人、うちの副部長」  宗太に言うと、 「いつも、制服いじって目立ってるから知ってる」  特に感動もしない声が返ってきた。 慣例といって応募作品を多く集めて、コネ入賞者の価値を高めていたのだろうが、私たちの作品は、実力で入賞したと思うと、結構感動した。  日曜日にさっそく一人で見に来たところへ、宗太も来ていた。真由は今日、お母さんと一緒に、高齢者施設にいるひいおばあさんに会いに行っている。昨日は真由ひとりで表彰式に出た後、LINEで報告してくれた。 「なんでミウラさんは、自分の名前で出さなかったの?」  偶然だったけれど、二人きりで会って直接話をするのは、今日が初めてだ。宗太は私を名字で呼んだ。 「一人一作品って決まってるの。真由が、落ち込んでいたし、今回は手伝ったわけ」 「お人よし過ぎない? 自分の作品として出せばよかったでしょ」  人が好過ぎる。ちょっと前に、周治さんをはじめとする家族の、有たちへの対応に、同じことを感じていた。もしかしたら、私が真由と宗太に感じていたのと同じように、あの家族は彼らに何か負い目を感じていることがあるのかもしれない。  真凛さんの事故以来、この姉弟に親切にしないといけないような強迫観念はあった。表情の読めない宗太の横顔を見ると、真凛さんと付き合うような人が、私に興味を持つはずがないと思う。でも別にがっかりしたりしない。好きかどうかといえば、顔は嫌いじゃなくて、たぶんそれだけだ。真凛さんへの気持ちと似ている。仲良くしているうちは、私のことを嫌いだろうかだなんて、不安を抱くこともなかった……この人たちの本心なんか何も知らない。ひょっとしたら誰のことも、本当には理解していなくて、何となく好意を感じて何も考えずに済んでいただけなのかもしれない。  そう思うと急に怖くなった。宗太にこの絵がどう見えているのかも、私にはわからない。  様子をうかがいながら、ふらりと自由に絵を見て回る彼の一メートルくらい後をついていく。ほぼ全部の作品を見終えると、流れに乗るように展示室の外に出た。白くて広い廊下を、さっきと同じ距離を保って歩く。あんまりマイペースなので、私がいることなど忘れているのでは、と思ったとき、 「座ろ」  と、窓に向かって並んでいるベンチスツールの前で振り返った。直射日光は当たらないけれど、天井から床までの大きいガラス窓の向こうは、秋の陽光を受けて深くなった樹木の色、褪せてきた芝生の色がくっきり映えている。口の中がカラカラになりそうで、トートバッグからフリスクを取り出して、「いる?」と宗太に聞くと、ん、と言って手のひらを出した。 「これ、クシャミでない?」 「出ないよ」  私が一粒自分の口の中に入れると、先に口に含んでいた宗太は手のひらで口元を押さえて、クッ、と小さくせき込んだ。 「真凛の彼氏って、ミウラさんのお義兄さんだって?」今度は私がせき込んだ。じわりと顔が熱くなる。  以前真由に聞いたけれど、そもそも真凛さんと宗太が付き合ったきっかけは、半年くらい前に髪型を変えたいとお店を検索した宗太がFelizに行って、受付をしていた真凛さんと知り合い、カットが済んでから、お母さんとお姉さんにも紹介してね、と言われてお店のLINE登録をしたことだ。  宗太が真由と一緒に真凛さんの家へ行ってきたのが、有と有の母親と祖母が訪れたのと同じ頃だったので、そこで何かを聞いたのかもしれない。 「真由もそのこと知ってるの?」 「うん」 「あたし、あなたたちのために、一生懸命尽くしたんだけど……」  つい恨みがましい言葉を口走ってしまった。真由が憂鬱な顔をしているのがつらくて何でもしてあげたいと思ったのは私なのに、彼らがなにも知らないところで助けてあげられたらそれで満足するはずだったのに。 「……なんか、謝ったほうがいい?」  宗太は気づかわしげに聞いた。頭がくらくらして、思わず右手をぎゅっと握り、 「……いい」とだけ返事をした。  今、自分は喧嘩したんだろうか。美術館の外の石畳をバス停に向かって歩きながら考えた。宗太は、じゃあね、と穏やかなのか、冷たいのかよくわからない笑みを浮かべて先に帰っていった。頭の中がめちゃくちゃで、気持ちもめちゃくちゃだった。いつまでも彼らが真相を知らないと思い込んで、後ろから見守る存在になれると思っていた私はあほだ。バスの中でお母さんに抱っこされた赤ちゃんが、横に座る私を透明な瞳でずっと見てくる。母親に抱かれて、お世話をされないと生きていけないその子にもいずれ自分の力で生きてゆく日が来るというのに。  家の門まで来ると、周治さんの友達の画家が祖母に見送られて出てくるところだった。先に向こうが気付いて、「おお、花菜ちゃんお帰り」と鷹揚に手をあげた。 「こんにちは」口元をあげ笑みを作る。周治さんはたぶん和室か玄関までの見送りで、お客さんの後は横になっているのだろう。最近は無理をしないようそうしていることが多い。画家が道を曲がり見えなくなったところで祖母と一緒に母屋の中に入った。 「真由ちゃんの絵は、どうだった?」 「よかったよ」  私が手伝ったことは知らないので当たり障りない答えをした。  おかえり、と言って、母が下げたお茶を盆にのせて和室から出てきた。ちょっとくたびれている顔をしていた。 「おやつ食べる?」  フリスクしか食べていなかったし、うん、食べる、と答えると、離れに行き手を洗って着替えてまた母屋のリビングに行った。一人になりたくなかった。  てっぺんに薄く焦げ目のついた、柔らかいうす黄色の小ぶりなチーズケーキと、コーヒーを持ってきてテーブルに置くと、祖母と母は小さいグラスを出してワインを注ぎ、自分たちのチーズケーキの横に置いた。 「もう飲むの?」 「こうして時々、おやつの時にいただいてるの。今日はもうお夕飯の支度はできているし」  キッチンのテーブルの上には、四角い木製のお弁当箱が積まれていた。週末に冷蔵庫整理をするので、昼のうちに作っておいたものとかを人数分詰めて、出すだけにしているのだろう。今までもそういうことはあった。  祖母と母が少しずつグラスを重ねるうちに、今日画家が来た理由を話し始めた。有が最近、小説を書いているらしく、時々、周治さんにメールをよこして見てもらっているらしい。内容は私小説風自伝的なもので、祖母と母は「困るわねえ」と顔を見合わせて苦笑した。夏ごろから書き始め、完成間近で、周治さんの知り合いを通じて出版の話があり、画家に表紙を依頼するという相談だった。画家自身は快諾したというが、家のごたごたを公表するような有のやり方に思わず両手で顔を覆う。今まで何も相談がなかったことに、周治さんの意志が働いていると感じた。 「大丈夫?」  母が心配そうに聞いた。もう引き返せないところまで来ているのだろう、諦めるしかないのか。 「……うん」小さい声しか出ない。    翌日の放課後、部室に行こうとスクールバッグを肩にかけ自分の席から立ち上がった途端、真由に腕をつかまれ、ちょっといい? と屋上に連れていかれた。曇り空に薄青い筋が入って、見ているだけで寒気がするような色だ。 「なに? 寒いんだけど」二の腕をさすりながら声が尖っているのが自分でもわかる。でも抑えられない。 「昨日、宗太に変なこと言われなかった?」  真由の顔を見ることができなくて視線をそらす。 「べつに」 「ちょっと、説明させてほしいんだけど」  真面目な口調だ。ちゃかすことも走って逃げだすこともできずに次の言葉を待つ。 「昨日さ、宗太一人で絵を見に行ってたでしょ? どうしてだと思う?」 「……知らんがな」  言われればそうだとちょっと不思議に思う。家族みんなでひいおばあさんに会いに行けばいいのに。 「ひいおばあちゃんが、宗太のことを心配してうるさく言うから疎遠になっちゃったの。子供の時からね、お母さんは保因者だって責められて。絵は好きだしうまいけれど、ほかの人と同じように予備校行ったり美大に行くという選択肢がないわけ」 「……で?」 「この間のポスコンは、あいつにとってチャンスだったの。花菜が推してくれて、最初はなんでそんなに構うんだろうって思ったけれど、話してみたら本人が思った以上にやる気だったから、私も協力したくなって」 「……それは、この間も聞いた」 「別に、花菜を利用したつもりはないの。手伝ってくれて、本当にありがたかったし気持ちがうれしかった。お義兄さんのことを気にして黙って手伝ってくれたこと、ちゃんとわかってたよ」  急に目の前が熱を帯び、下を向くと上履きの甲に水滴がぼたぼたっと落ちた。顔や頭に当たる真由の制服のにおいと背中に感じる手のひらの感触。でも、二人の間にある隙間を意識せずにはいられなかった。 「ごめん、ちょっと……」  声を絞り出す。真由も宗太もいっぱいいっぱいだったのはわかっていたはずなのに。  高三の初春に周治さんが亡くなった。前の年の夏に有の本は出版され、『二〇〇〇年代の太宰』というコピーの帯で巻かれて店頭に並んだ。表紙には白黒の美しい濃淡でさっと抽象模様が描かれている。描いたのは宗太だ。父も交えて周治さんと画家に彼を推薦したのは私だった。抽象画のデザインは私が担当した。  真由は県外の大学へ、私は地元の大学の美術教員養成コースに入った。合格発表のあと駅中の書店の前を通ると、斜め四十五度の逆光のショットで、有の顔のシルエットが浮かぶポスターが大きく貼られ、なんだかものすごく恥ずかしくなって、小走りに立ち去った。   数か月ぶりに画家が訪ねてきて、入学祝にと蝶結びの水引がかかったのし袋をくれた。いつも予告なく来る人なので、祖母は友人と会いに、母は買い物に出かけていて、家に私一人だった。周治さんが外出しているときにふらりと来て、女三人と他愛ない話をしていくこともあったので、特に珍しいことでもなかった。ラングドシャと、ミルクを入れたアッサムをリビングに運ぶと、和室で線香をあげて出てきた画家が、ふさふさした白い眉毛を下げた。 「おお、ありがとう。有君も大活躍だね」  私は口元だけで笑った。目が笑ってないと、時々、大学の友達に指摘される。 「もう、周治君の百箇日も過ぎたし、いいかな」 「ええと、何でしょう?」 「有君の本は、読んだ?」 「いえ……まだ」  家族の恥をさらしているのに違いないから、手にも取っていない。表紙のデザインを手伝いはしたが、あれが採用されたのは宗太の画力によるところが大きい。 「……そうか。周治君と僕は、昔、一緒に仕事をした縁で仲良くさせてもらっていたんだが」 「はい」 「その時一緒に働いていた編集者を二人で好きになってね、取り合いみたいになったんだ。結局、僕らじゃなくほかの人と結婚してしまったんだが、そのお嬢さんが玲子さん――有君のお母さんなんだよ。周治君が結構熱心に動いてね、自分の息子のお嫁さんにしちゃったわけだ」  画家はいまでも結婚はしていない。その人の娘を家に迎えた周治さんと境遇は違うけれど、この二人は、過去に好きだった人のことを、それぞれの胸の中でずっと思い続けたのかもしれない。 「お祖母さんはそのことを知ってるんですか?」 「そうねえ、勘のいい人だし、ちょっと妬いてるところもあったんじゃないかな」  母と違い、祖母は顔に出るたちだ。周治さんのように、周りの人を気遣い一生面倒見るようなことは、私には到底できない。 「ちょっと花菜ちゃんに知っておいてほしかったんだ。もし僕が先に死んだら、周治君は墓場まで持っていったろうから」  画家が帰ったあと、和室の書棚にあった有の著作を手に取った。この本を離れに持って行って読みたくはなかった。周治さんの気配のあるこの部屋で読みたかった。  ……僕が生まれた時、祖母は「女の子が良かった」と母に言ったそうです。そして僕にはあまり構わず、後妻として来た女の人の連れ子の方ばかり可愛がっていました。  確かに祖母は、女同士で仲良く遊ぶのが好きな人だ。 ……次第にすねた僕は、後妻さんのいる離れから金を盗むようになり、 ……連れ子の妹を襲おうとして未遂に  そこを読んで吐き気がした。思い出してしまった。全部は読めなくて、途中で書棚に返してしまったが心臓がどきどきしておさまらない。いったん離れに戻ってみたものの、読まないうちは何ともなかったのに一度読み始めたら全部読まないと済まないような気がして、また和室に行った。知らないことが書かれているかもしれない。特に、真凛さんとのこと。 ……婚約者がいる彼女を好きになってしまい、他にも付き合っている男がいると知って ……彼が描いたMの絵が部屋にあり ……ある夜、彼女を誘い海へ車で行き  書いてあることは、聞いた話と寸分たがわず、読んでいて既視感にめまいがした。あの記憶を葬りたかった。具体的なことは思い出さず、ただぼんやりと、何かあったような気がする、くらいの存在であってほしかった。そのために、真由と宗太に何かいいことをしないと。良心の呵責から逃れるために彼らを利用し引っ張り出したのは、私の方だ。 ……僕は、彼女が死んではじめて生まれてきたことを後悔しました。  ……しかし、すべて物事は去ってゆきます。  『傷』というタイトルの本を閉じ、私はまたこのことを忘れようと決めた。いずれ、かすり傷程度のことだったと思える日が来るまで。 「ターゲット層は、年齢が高めなんですが、アンケートによると宗太君の絵は四十代以上に人気があるので大丈夫かと」 「わかりました。大方のラフですが、いかかでしょうか?」  タブレットに取り込んだ白黒の絵と文字部分のデザインを担当者に見せた。先週依頼されたジャズフェスのポスターとチラシだ。 「ほう、ソプラノサックスを、こう、アップにね。なるほどなるほど。こちらは面白いフォントですねえ。初めて見ました」  打ち合わせのテーブルの上で背中をかがめながら目を細めている。 「納期は、来月十日ということでよろしいんですよね?」 「ああ、ごめんなさい! それがねえ、今月中ってことになったんです」  顔の前で手を合わせてしきりに謝るポーズをとる。内心イラッとしたが、 「あ、はい。伝えておきます。では」  と、笑顔で席を立った。廊下に出るとすぐLINEを開いて連絡する。すぐに泣き顔のスタンプが戻って来たので、励ましの言葉を返すとスマホをバッグにしまってビルの外に出た。  蒸し暑く風が全くない。遠くに濃いグレーの雲がグラデーションを作って溜まっている。降りそうだな、と折り畳み傘があるのを確かめてから信号を渡った。  宗太はイラストの仕事をして、私はデザインと打ち合わせを担当することになって一年たつ。タブレットを使わない宗太はいつも締め切りぎりぎりになる。学校の課題もあるし忙しいけれど、仕方がない。思った以上に宗太の絵が人気があって仕事が入るのだ。自分にサポートなんてできないと思っていたけれど、この縁がある限りはやめないでおこうと思う。  高二の夏休み前と同じような空ではあるけれど、全く同じでもなし、雨が降る前にバスに乗ろうと大きく足を踏み出した。                     
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