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揺曳する魂
夏が終わり急激に寒さを増す。
白い綿飾りを纏った小さな命が雪を待ちわびるこの季節は、日没も随分と早まる。学校帰りの道草なんて論外とでもいうように、夏場はまだ遊んでいられた時間も自由はなく、その代わりに学習塾の予定がびっしりと詰まっている。
奈々の両親はいわゆる子供に過度な期待をする親だ。テストの点数や習い事の順位を周りの子と比べたがる。目に見える結果を求める人達だ
学校帰りはまっすぐ塾に寄って、それからピアノ教室、一度家に帰って夕食を済ませると今度は家庭教師の先生が来る。周りの子はもっと遊んでいるのにだとか放課後の遊びに誘ってもらえないだとか不満はあるけれど、お母さんに叱られるのが嫌で渋々諦めているというのが本音だ。
その日も奈々は塾の予定があった。国語と算数、プリントを二枚ずつ終わらせれば帰れる塾なので問題さえちゃんと解くことができれば早く帰れる。このところ奈々は一番乗りをキープしている。早く終わればその分遊べる。ついでに塾で宿題を終わらせれば家庭教師が帰った後にゲームをする時間だってできる。
奈々の頭の中はいかに今日の宿題を早く終わらせ遊ぶ時間を作るかに意識が向いてしまい、うっかり大切なお知らせを聞き逃してしまった。
猟銃を持った不審者の目撃情報があるので集団下校しましょう。
他の子たちは固まって下校していた。けれども奈々は話を聞いていなかった。いつもの道をまっすぐ、ではなく塾までの最短距離、つまり獣道を通って行こうとした。
この時期は比較的雑草が刈られているので歩きやすい。この道はまだクマの目撃情報はなかったし「入らないでください」とかかれた看板もロープも見あたらない。だから奈々は踏み固められた獣道を進んだ。
なにも怖いことなんてない。この道は上級生たちが何年も使っている道。さすがに低学年の子は通っちゃだめだと注意するけれど、奈々はもう五年生だ。来年には最上級生のお姉さんなのだからとどんどん先に進む。
気をつけなければいけないのは少し左の道。あそこは毎年春頃に不審者が出るから近づかないようにと言われている。なんでも露出狂が出るらしい。まだ雪の残る時期によくやるなぁと考えたことを思い出す。
奈々はそろそろ塾近くの裏道だろうと通りを見た。すると見慣れない光景がある。
黒い服を着た人の行列があった。
誰かが亡くなったのだろう。お葬式の列だと思った。
何人かは泣いているように見える。けれどもそれ以上に奈々が気になったのは、少し遠く離れたところでじっとその列を見ているような影だった。
その影は、人と呼んでいいのか悩んでしまうほどぼんやりと見える影はずいぶんと昔の人の格好をしているように見える。べつに原始人だとかそういう格好ではない。かといって落ち武者だとかそんな雰囲気でもない。ただ、着物姿の、たぶん身長からして男の人だと思う。その人はただ、黒い服の人たちの列をじっと見ていた。
いったい、なんなのだろう。
奈々は少し気になったが、それでもここで足を止めてはせっかくの近道が意味を失ってしまうのであの影も、列も見なかったことにして先へ進んだ。
夜、奈々は夢を見た。
内容は全く思い出せないのに、ただ、寂しい。寂しいとそんな気持ちになり、目が覚めたときにはわずかに泣いていたようだった。
変な気持ちのまま、学校へ向かう。
いつもの道だというのに、とても寂しいように思えた。きっと夢のせいだろう。あの夢が妙に引きずる。
「おはよう」
途中で会った学年で一番かわいいと噂の真由ちゃんがいつものかわいらしい笑顔であいさつしてくれたと言うのに、どうしてか、奈々は誰とも触れ合えないような強い寂しさを感じる。
「どうしたの?」
「え? ううん。なんでもない。ちょっと変な夢見た気がして」
真由ちゃんはいつも通りだ。いいとこのお嬢さんって感じで、いつもブランドもののかわいい服を着ている。話し方もどこかおっとりしていて、運動が苦手。かわいい女の子というのはこういう子を言うのだろうと思わせる子だ。噂にも納得してしまう。
「奈々ちゃん昨日集団下校だったのに一人で帰っちゃったでしょ」
「集団下校?」
「猟銃を持った怖いおじさんがうろうろしてるんだって」
真由ちゃんはまじめな顔で説明してくれた。けれども、猟銃持った人間がうろうろしているのに集団下校だなんて無駄じゃないだろうか。
「奈々ちゃん今日は真由と一緒に帰るんだからね」
「えー、だって塾あるし、真由ちゃん歩くの遅いじゃん」
そんなことを言ってしまっても真由ちゃんの誘いは嬉しい。たぶんあの変な夢のせいで、思ったよりも気が弱くなってしまっていたのだろう。
授業中も奈々は妙な感覚に襲われた。
まず、教室に入った瞬間、そこに誰もいないのではないかという寂しさに包まれた。いや、正確には「誰にも奈々が見ていない」のではないかという不安だ。
もちろん、そんなことはなく、未来ちゃんや千夏ちゃんもいつも通り話しかけてくれたし、グループ課題だってなにも問題なく終わらせることができた。
休み時間はと言えば、不審者の噂がどんどん装飾を増している。
猟銃を持ってうろついていた人のはずが武器を不法輸入した大量殺人鬼になって、さらにそいつの名を口にすると夢の中まで殺しにやってくるという。ばかばかしい。漫画や映画の見すぎだ。間違っても奈々はそんな話を信じたりはしない。そもそも猟銃だって何かと見間違えたのかもしれない。ケースに入ったゴルフクラブだとか、弓道の道具かもしれない。なにせ今年はまだクマが出没したから農作業を中断しろなんて注意する車を目撃していない。
それでも、と考えてしまう。猟銃じゃなくてもモデルガンだとか、最近は3Dプリンターだとかで銃を作ってしまう人がいるらしいからそういった不審者なら実在するかもしれない。どちらにしろ、夢に出てくる殺人鬼よりはずっと危険人物だ。
そう考え、奈々は強い頭痛を感じた。
どうも、夕べから調子が悪い。
あのへんな影を見てしまったせいだろうか。
非現実的だ。
奈々は自分の考えを否定する。
それでもなんとなく不安のようなものを感じたまま一日を過ごし、真由ちゃんと一緒に下校する。下級生も一緒の五人グループでの下校になったが、同じ方向は奈々と真由ちゃんが最年長だった。
下級生を送り届けている間、なにか視線を感じた気がした。けれども振り向いても誰もいない。
ひとり、またひとり。家に送り届ける。その度に誰かに見られているような気がした。
そして、真由ちゃんと二人になる。
「ねぇ、さっきから誰かに見られている気がするんだけど……」
思い切ってそう告げれば真由ちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「見られている? でも、だれもいないよ」
真由ちゃんもあたりを見渡して言う。
けれども、確かに視線を感じてしまう。
奈々は少し怖くなって真由ちゃんの腕を引き、早足で歩き出す。
今日は塾が休みだ。ピアノのレッスンさえちゃんとこなせば叱られることはない。とにかく早く家に帰ろう。
そう、足早にいつもの道を進んだ。今日はあの獣道を選ぼうなんて考えもしなかった。
そのはずなのに。
影が居た。
あのお葬式の列を見ていた影が、目の前にぼうっと現れたような気がした。そして影は尻尾のように伸びながらただゆっくりと通り過ぎていく。
「い、いまなにか通らなかった?」
たぶん、奈々の声は震えてしまっていた。自分でもあきれてしまうほど慌てて真由ちゃんに訊ねても真由ちゃんは不思議そうに首を傾げるだけだ。
もう一度、影があった方を見る。けれども既になにも見えず、その日はそのまま下校した。
その夜も奈々は夢を見た。
不思議な夢だった。
家族や友達、すれ違う人に声をかけても全く届かない。まるで同じ場所に居るはずなのにひとりぼっちになってしまったような夢だった。
ぐっしょりと、嫌な汗をかいて目覚めた奈々は落ち着かない心のまま学校へ向かう。
また、気配がする。
後ろを向けばゆらりとあの影がある。
彼、たぶん男の人だろうその影は特になにをするわけでもなく、ただそこに存在しているだけという様子で、ゆらりゆらりと揺らぎながら奈々を眺めているように感じられた。
寂しい。
そう感じるのは奈々の心か、それとも彼か。
なんとなく、相手をしてはいけない気がして知らない不利を決め早足で学校へ向かう。
どうやら学校まではついてこないよだった。
けれども、放課後、まるで迎えに来たと言わんばかりに影が校門に立っていた。薄く、淡く、風が吹けば消えてしまいそうなほどの儚い存在に見える彼は、ただじっと奈々を待っているように思えた。
特になにをするわけでもない。ただ、いるだけ。
今のところ彼、名前を知らないので仮に彼と呼ぶことにした存在は奈々になにかをするわけではない無害な存在で、妙に古くさい格好をしていることと影が薄いこと以外は、少しおかしな人に見える程度だ。
だから、好奇心が刺激されてしまったのかもしれない。
今日も集団下校は続き、下級生を送る間も彼は奈々の後ろをゆらゆらとついて歩いた。そして、真由ちゃんと別れた後もやはり奈々について来る。
「あなたもこっちなの?」
そう、訊ねることに意味があったのかはわからない。
けれども、陰は一瞬驚いたように体を動かし、それから否定するように首を振った。
「早く行かないと。最近不審者が出るって」
そもそも彼自身が不審者であるかもしれないのに、奈々はそう口にしてしまう。
そして塾に着くまでの間、彼はとぼとぼと奈々の後ろをついて歩いた。
その日から、やはり彼は頻繁に夢に現れた。
彼はどうやらお金持ちの家のお坊ちゃんらしい。「ばあや」と呼ばれる人に少し古い言葉でなにかを話している様子が見えたり、彼の兄弟らしい人ともめている様子が見えたり、とにかく、彼の様子を見せられた。どうやら友人かなにかに選ばれてしまったのかもしれない。
彼はまるで奈々の保護者を気取るかのように登下校の付き添いをし、それでもただ居るだけという様子を見せる。
声は出ないらしい。
けれども奈々が話しかければ頷いたり首を振ったりと返事をしてくれるようになった。
変な友達ちが増えた。
そう考えればそんなに悪い話でもないのかもしれない。
そんな風に思っていた。けれども、それは間違いだった。
不審者の目撃情報は相変わらず進展がないにも関わらず、その日お母さんは残業だとかでピアノ教室の迎えに来てくれなかった。家からはそんなに遠くない距離だから当然歩いて帰ることはできる。
けれどもこの時期は真っ暗だ。
べつに奈々は極端な恐がりではない。
けれども、その日はいつもの道がとても怖く感じられた。
思わず、保護者気取りのおかしな友人を見る。彼は相変わらず揺らめいているだけ。そう、思っていたのに、突然変化した。
彼、が大きな暗い影になて奈々を覆った。そして、耳が聞こえなくなってしまうのではないかというほど大きな音が響く。
それが銃声だと奈々が知ったのはだいぶあとの話だが、とにかく突然大きな音が鳴って、影の彼が散った。
そしてなぜか、知らないおじさんがその場で気を失っていたのだった。
奈々は慌てて家まで走った。そして自分の部屋で大きなぬいぐるみを抱きしめ気を落ち着かせようとした。
その日から、おかしな夢は見ない。
そして、彼の姿も見えなくなった。
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