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たかが出会い系サイトで知り合った見ず知らずの相手のために高級なホテルを取ってくれて、なのにその相手が会社の部下だと知ると相手を思って約束をやめてもいいと言ってくれた。それでもそのまますることを希望した僕を、これ以上ないくらい優しく丁寧に扱ってくれて・・・。
そして僕の望みどおりに、心を上書きしてくれた。
僕はいまだ痕跡が残る身体を抱きしめる。
まだ課長が僕の中にいるみたい。
今日一日、ずっと課長を感じてた。本当はもっと余韻に浸りたかった。あのまま課長の腕の中で微睡んでいたかったけど・・・。
もう二度と、そんなことにはならないんだろうな・・・。
もともと一夜限りの約束だった。そう言う話になっていた。だから課長もそのつもりだったと思う。
きっと次に会ったら、いつもの上司と部下に戻るんだ。
胸がつきんと痛くなった。でもその痛みを僕は深く考えない。だってせっかく辛い思いを忘れたのに、また新たに辛くなることは無いんだ。
僕はその痛みに気付かないふりをした。
さあ、早く帰ろう。
もう身体も限界だし、早くベッドに横になりたい。
そう思ってタクシーを呼ぶために取り出したスマホを見て、スマホの電源が切ったままになっていたことに気づく。
そう言えば美容院の前に電源を切ってたんだった。その後そのまま式の会場に行ったから、すっかりスマホのことなんて忘れてたけど、まあ、休日に連絡をしてくるような友人はみんな今日いたし、連絡が来たとしてもせいぜい親くらいだろう。でもうちの親は滅多に連絡なんてしてこないから、問題ないと思うけど・・・。
そう思って電源を入れたスマホにメッセージ6件と電話20件の文字。
え?
未だかつて見た事のないその数字に、もしかして親に何かあったのかと焦る。
急いでロックを解除して確かめようと思ったその時、いきなり鳴り出すスマホに僕はびっくりしてスマホを落としてしまった。けれど運良くそれは膝の上に落ち、幸いにも地面には落ちなかった。それにほっとしながらもスマホの画面を確認すると、そこには知らない番号が。いつもなら知らない番号には絶対に出ないのだけど、この時はお酒も入っていて何も考えずに出てしまった。
「もしもし?」
お酒の力ってすごい。いつもならこんな電話には出ないし、たとえ出たとしても自分からは話しかけないのに。
妙に冷静にそう思っている僕の耳に、スマホの向こうから息を飲む音がする。
「・・・雪宮。大丈夫か?」
すぐに響く、焦ったようなその声は課長だった。
焦っててもいい声。
思いがけず聞くことが出来た課長の声がうれししい。
「雪宮、身体は大丈夫か?電話に出れないくらい辛いのか?」
続けざまの質問に、あの電話20件は課長だったのかと思う。
課長、心配してくれたんだ。
あれ?でも僕、メモ残したのに。
「大丈夫です。すみません。メモにも書いたと思うんですけど、今日は用事があってずっとスマホの電源を切ってたんです」
「メモは見た。けれど昨夜はかなり無理させてしまったから・・・。なのにメッセージも電話も繋がらないから心配になって」
本当に心配が滲む声に、僕は申し訳なく思う。メモ1枚だけじゃなくて、途中で連絡入れればよかった。と言うか、スマホを確認すればよかった。
「すみません・・・」
「いや、無事ならいいんだ。・・・ところでいま外なのか?」
まだそんなに遅い時間では無いので、駅前のここはそこそこざわついている。
「はい。用事が終わったのでこれから帰ろうと思って・・・」
「どこ?」
言い終わる前に課長に訊かれ、思わず言葉が詰まる。
ここどこだっけ?
まだお酒が残る頭は回転が鈍く、ここがどこだか思い出せない。僕は辺りを見回して後ろの駅を見る。そして見えた駅の名を告げる。すると間髪入れずに課長から返ってきた。
「いま行くからそこで待っていなさい」
相変わらず鈍い頭は課長の言葉を理解し損ねた。
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