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その音にものすごくびっくりした僕は思わずスマホを落としそうになって慌てる。幸いすんでのところで落としはしなかったけど、その驚きに心臓が壊れるかと思うほどどきどき鳴る。とその時、後ろから声がかかった。
実は待ち合わせの合図は、先に着いた人のスマホにメッセージを送って、その通知音で相手を探すようになっていたのだ。なので先に着いた僕はスマホの音を大きくして待っていたのだけど、考え事をしてるうちにその事を忘れていたのだ。
「ユキくん?」
かけられた声に僕は振り向いてその人を見上げる。するとそこには驚愕するその人の顔が。だけど僕も、驚きでその場に固まってしまった。
「ユキ・・・みや・・・」
その人は驚いたまま信じられないよう顔をして僕を見るけれど、僕も同じくらい・・・いや、それ以上に驚いてその人を見た。だって、そこにいたのはついさっきまで同じフロアにいた会社の上司だったからだ。
「課長・・・」
僕が今日会う約束をしたのはサイトの中では『ヤザキ』さんという。そして目の前にいま立っているのは上司の『假屋崎』課長だ。
ヤザキ・・・假屋崎・・・。
きっと課長も同じようなことを考えているのだろう。僕の名前は雪宮響希。サイトの中では苗字の一部をとって『ユキ』と名乗っていた。
たまたま待ち合わせ場所が同じだっただけで、お互い相手は違う人・・・なんてことあるわけがない。ここで待ち合わせをしていたのは『ヤザキ』と『ユキ』で、僕達は『假屋崎』と『雪村』だ。僕がその『ユキ』なのに、課長の名前がたまたま『ヤザキ』さんと似ていただけなんて考える方が難しい。
「雪宮が・・・ユキくん?」
固まる僕に、課長も困ったように確かめてくる。
「・・・はい。課長も、ヤザキさんですよね?」
どうしていいのか分からず、僕は下を向きながら言った。
まさか『ヤザキ』さんが課長だなんて・・・。
出会い系と言うだけでも誇れることではないのに、僕は途中のステップを飛ばしていきなりホテルを希望した。それは捉えようによってはただ『ヤリたい』だけであり、そういうことが好きな淫乱のようだ。
課長は僕のこと、どう思っただろう・・・。
僕をどんな風に見ているかを考えると、とても課長の顔なんて見られない。僕は下を向いたまま恥ずかしい気持ちを堪えていた。すると頭に感じる優しい感触。課長が僕の頭に手を乗せたのだ。
「とりあえず移動しよう。このままここにいても仕方がない」
そう言ってそのまま頭を撫でてくれた。その優しい声と手つきにそっと顔を上げると、そこには決して僕を蔑んだりせず、むしろ温かい眼差しの課長の顔があった。
「このまま予定通りにするかも含めて少し話そう」
その言葉に僕が頷くと、課長は僕を促して歩き始めた。そして着いたのは都内でも有名なホテル。てっきりここの喫茶ルームとかに入って話すのかと思ったら、課長はそのままフロントまで行きチェックインの手続きを始めた。
もしかして今日のために部屋を取っててくれてたの?
僕たちは今日、会ったらそのままホテルに直行する予定になっていたのだ。お茶も食事もしないでそのままホテルに行ってする。それが僕の希望であり、ヤザキさんはそれを受け入れてくれていた。
僕はただ、経験したかっただけだから。ここで出会った人と付き合うとか、生涯のパートナーを探すとかじゃなくて、破れた初恋を忘れて強くなるために、そしてその人の結婚式に行けるようにするために僕のこの身体を抱いてくれる人を探していたのだ。だからヤザキさんとも一夜限りの関係だと思っていたし、ヤザキさんもそう思っていると思っていた。だからそんな相手と過ごすホテルにまさかこんな有名なところを予約してたなんて、僕は信じられなかった。
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