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初めて会うのに途中をすっ飛ばしてしていきなりホテルに行こうなんて、そんな相手ならその辺のラブホテルで十分だ。僕だってそうだろうと思っていたし、なんならそれもまた経験だと思っていた。なのに、こんなすごいホテルだなんて・・・。
場違いな気がしてそわそわしている僕の腰に、課長が自然と手を回す。
「さあ、行こうか」
そしてそのままエレベーターに向かうと、ちょうど降りて来たそれに乗り込む。そして着いた先は高層階の部屋で、窓には東京の夜景が一面に広がっていた。
入ってすぐに目に飛び込んできた夜景に吸い寄せられるように窓まで行くと、まるで別世界のようなその光景に釘付けになる。
「きれい・・・」
東京に来て6年目だけど、こんな高いところから夜景を見たことはない。
「初めてだって言っていたから、記念になるようにと思って」
いつの間にか僕の後ろにいた課長の言葉に、僕ははっとする。
そうだ・・・。
僕は今日ここに・・・。
急に現実に引き戻されて、胸の鼓動が早くなる。すると後ろの課長が僕の肩に優しく手を置いた。
「そんなに緊張しなくても、無理強いはしないよ」
その言葉に見上げると、そこには窓に映った課長の顔があった。その顔は優しく微笑んでいる。
「君は、全く知らない相手だから自分の全てをさらけ出そうとしたのだろ?だけど偶然にもオレは君の上司だ。そうなると、君の中の気持ちも変わってくるはずだ」
そうだ。
僕はまったくの赤の他人とその夜だけを共にし、その後は二度と会わないつもりだった。だからそれがどんなに愚かで恥ずかしい行為であっても、その時だけだと腹を括ってその人に全てをゆだねようと思ったんだ。だけどそれが顔見知りの、しかも同じ会社の上司だったら・・・。
一夜限りどころか、下手したら毎日顔を合わせることになる。
課長とは部署が違う。だけど同じ会社だし、まったく交流がない訳では無い。それに今までだってそこそこの頻度ですれ違ったりしていた・・・。
でももしここで断ったとしても、すぐにまた違う人を探すなんて僕には出来ない。だって結婚式はもう明日なのだから。これから探すとなったら、そういう人が集まるバーに行ったりハッテン場と呼ばれるようなところに行くのだろうけど、僕にはまだその勇気はない。
「もし・・・課長が嫌でなかったら・・・このままお願いします・・・」
きっと課長はもっと可愛い子が来ると思っていただろう。なのに実際はこんな地味で冴えない、しかも同じ会社の部下だ。直属ではないにしろ、あまりいい気はしないだろう。
だけど僕にはあとがない。
「ひどくしても構いません。痛くてもいいです。だから・・・今夜を忘れられない夜にしてください」
とてもまともな話ではない。だけど、僕はそうしてもらわなければ困るんだ。叶わない恋を忘れるくらい強烈な経験をしないと、きっと僕は明日の式には行くことが出来ないだろうから。
すると僕の肩に置いていた課長の手に力が籠った。
「君は・・・そんなことを言って後悔しないのか?」
後悔はするかもしれない。けれどそれは相手が課長だと言うことだ。これからきっと会社で顔を合わせることになって、そしてその度にこの夜を思い出していたたまれない思いをするかもしれないけれど、この夜の行為を悔やんだりしたりはしない。
「後悔はしません」
だから僕ははっきりとその思いを口にした。すると肩に置かれた手が僕を引き寄せ、あっという間に僕は課長と向き合う形になった。そしてぶつかる唇。
一瞬の出来事に何が起こったのか分からない。気がついたら僕は課長の腕の中に抱きしめられ、唇を合わせていた。
「・・・キスも初めてだったね」
わずかに離した、けれど唇がまだ触れ合う位置にいる課長が目を細めて言う。近すぎて見えないけれど、多分微笑んでいる。
「目を閉じて、口を開けてごらん」
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