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シエラも、あの男のことしか頭になく、後に続こうとしたが、すぐにバスローブを着せてきた使用人に制されてしまった。
「いけません。もう時間がないんです。すぐに体を清め、正装に着替えていただきます」
「失礼します。ご報告です。ヴィザーロ宮のシエラ様の御両親がお着きです」
「父上が。……分かった。着替える」
割り込んできた使用人に故郷と両親の名前を聞かされ、冷静になったシエラはしぶしぶ浴室のある宮殿の奥に向かって踵を返した。
「では、お済みになったら呼んでください」
人魚族専用の、尾ひれまでたっぷり入る長いバスタブには、冷たい水が浸してあった。
そこに体を横たえると、現れた鱗にランプの光が反射して、紫や金やエメラルド色の光を散らす。
人魚の鱗は宝飾品として富裕層の人間に好まれることから、人魚狩りを企てる人間もいるという。そのため両親からは人間の前で人魚の姿にならないように、ときつく言いつけられてきた。
大丈夫。あの男には、見られていないし、人魚狩りの人間ではなさそうだった。それよりも、無事に救助されているといいが……。
シエラの頭から、自分の身に起きたばかりの鮮烈な体験が離れるわけがなかった。
あの日に焼けた肌と逞しい体躯。情熱的で眩しい太陽のような瞳。形のいい唇。ぽちゃん、と髪から雫が滴る中、シエラは自分の唇に手を当てたまま固まった。
見たことのない顔だったのに、初めて会った気がしなかった。なぜか、胸の奥であの人をずっと待っていたような気がする……。
瞼の裏に残る甘いときめきの余韻は、消えないどころかその色の鮮やかさを増していた。
「シエラ様、そろそろお支度を……」
「分かった。もう出る」
またも現実に引き戻され、シエラは脱衣場の大きな姿見の前に立たされた。
すぐに数名の世話係が、式典用の服や装飾品を手にシエラを取り囲む。
ゆるく波打つベージュの髪がふんわりと纏められて、古代模様をあしらった布の中に収められる。純白の伝統衣装はゆったりとしたズボンのような形で、へその下から広がっており、透け感のある更紗でできていた。差し色の帯は、瞳と同じエメラルドグリーン。シエラのためだけに誂えただけあって、全てがシエラの魅力を最大限引き立てる衣装だ。
最後に鱗と同じ玉虫色の貝殻を用いた装身具を額や首元に取りつけられると、周囲からは感嘆のため息が漏れ聞こえる。
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