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 小さな文具店にノートを買いに来ただけだった。一冊だけさっさと買えば済むはずだったのに、ふと視界に入った消しゴムに悪戯心が働いた。別に消しゴムが欲しかったわけじゃない。金が足りないわけでもない。それなのに一度抱いた悪意に近い好奇心は抑えることができなかった。  ――一度だけ。どうせ誰も見てないんだ。一つくらいなくなっても気付かないはずだ。  手が震えているのはきっと罪悪感。それでも俺はその震える手で消しゴムを箱から取り、ギュッと握り締めたあとブルゾンのポケットに忍ばせた。 「お前! 今なにやった!?」  強烈な怒号とともに手首を掴まれた。店主のおやじに見られたのである。 「な、何も、してません」 「嘘つけ! 今、消しゴムを盗もうとしただろ!」 「盗んでませ……ん」 「お前がノートを手に取ったところから全部見てたんだ。ポケットの中を見せてみろ!」  ポケットの中の消しゴムを出したら、警察に連れて行かれるかもしれない。そうなったら親父や妹も呆れて悲しむだろうし、進路だってまずいことになる。今更後悔したって遅い。 「勘弁してやってくれませんか」  落ち着いた声でそう割って入ってきたのは幼馴染の大智(だいち)だった。いつの間に店に入ってきたのか、大智は俺を庇うようにして店主に向かい合った。 「俺もずっとコイツのこと見てたけど、コイツは上着の裾を直していただけで、盗もうとしたわけじゃないです。商品を持ったままだから見間違えたんだと思います。実際、消しゴムはポケットに入ってないし」  と言って、大智は手の平を開いた。消しゴムが載っている。 「おじさんがさっきコイツの手首掴んだ時に転がってきました。コレ、お返しします」  俺のポケットの中にはまだ消しゴムがある。嘘だとバレないだろうかとヒヤヒヤしたが、店主のおやじは苦虫を嚙み潰したような顔で舌打ちをした。不本意ながら大智の言うことを信じたらしい。 「二度と紛らわしいことすんじゃねぇぞ!」  そう吐き捨てて店主が背中を向けた隙に、大智が小声で「早く戻せ」と促した。俺はポケットから取り出した消しゴムをサッと元の場所に戻し、ノートも買わずに足早に店を出て行った。  大智を追い掛けるようにしてまっすぐ伸びる土手を走った。夕陽で縁取られた大智の後姿に涙が出た。こいつが助けてくれなかったら、俺は今頃補導されているだろう。大智の優しさに感謝して、同時に自分の愚かさに絶望して、もう二度と馬鹿なことはしないと誓った。  川表を滑り降りて、雑草が生い茂る河川敷に仰向けになって倒れた。ハアハアと激しい息切れが、紫がかった夕方の空に溶けていく。そこにカラスが五羽、横切った。呼吸が整ってやっと、俺は大智に「ごめん」と謝った。 「俺は謝られるようなことしてないし、お前も悪いことしてないし」  俺はむくりと起き上がって、寝そべっている大智を睨んだ。 「俺が何やったか、見てたんだろ」 「してないよ。昇は何もしてない。やってないことで自分を責めちゃ駄目だ」  結果的にやってなくても「やろうとした」ことは事実だし、悪いことだ。だけど大智が「何もしていない」と強く言ってくれるから、俺はもう何も言わなかった。どんな大人に叱られたり責められたりするよりも、ずっと心が痛んだ。俺が鼻をすすって泣いているあいだ、大智は起き上がらなかった。 「……俺、お前がいないと生きていけないかも……」 「俺がいつも傍にいてやるよ」  葉っぱを髪の毛やマフラーにくっつけたまま上半身を起こした大智は、ニッとイタズラッ子みたいな顔で笑って言った。 「しかしあのオッサン、まんまと引っ掛かってくれて良かったな」 「……あの消しゴム、どうやって……」 「俺も買おうと思って持ってたんだよ。昇が入ってくるより先に店にいたんだぜ」 「気付かなかった」 「裾を直しただけ、は、ちょっと強引かなと思ったけど」  なぜだか急におかしくなって声を出して笑った。きっと俺は何年経っても、大人になっても、今日のことは忘れないだろう。  鼻と耳を真っ赤にして笑っていた大智の顔が、川に沈んでいく夕日の橙色とともに強烈に脳裏に焼き付いた。 中学三年の冬のことだった。
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