けしのはな

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 オレンジ色の花。見渡す限り。 「わ、見て見て。あなた。きれいね」  彼女は隣の夫に声をかけた。結婚して二年目の夫は、歩みを止めることなく「あ?」と呟いた。  車道に沿ってアスファルトの隙間からオレンジ色の花が点々と咲いていた。 「ほら、歩道のはじっこ。あったかくなるとよく見るわよね、最近」  夫の腕をつかんで花の方に目を向けさせようとする。夫は手に提げた買い物袋を持ち直すと「ああ、あれな」と呟いた。 「あれ、雑草だろ。ケシの仲間の。ここ数年バカみたいに繁殖して、うちの実家の農家も迷惑してんだ。あんなのきれいじゃねえよ」  吐き捨てるように言われる。 「そう? かわいいじゃない。雑草だと思うからきれいに見えないんじゃないの? でも、あなたはおうちが実害にあってるから、そう思っても無理ないかもしれないけど……」 「変にひょろ長くて花の色もうすぼけてる。好きじゃねえな。まあ、お前がきれいだと思うんならそれでいんじゃね?」  夫は「歩きにくい」と言って腕を振り払う。彼女を置いて先にすたすたと歩いて行った。  後ろを振り返ると。曲がり角に生えたオレンジの小さな花がひとつ。風にゆらりと、揺れた。    ***   「あれ。見て。今年も、もうそんな季節なのね」  彼女はマンションの二階の窓から、下を見下ろす。アスファルトの駐車場と植込みの間に、ずらりと一列、オレンジ色の花が咲いていた。  夫はテレビのリモコンをいじりながら、「何がだ?」とこちらを振り向かずに口を開いた。 「ほら、去年もたくさん道端に咲いてたでしょ。オレンジ色の花。あなたが実家で迷惑してる雑草だって教えてくれたじゃない」 「ああ。そんなこともあったかもな。……つうか、雑草の話とか何嬉しそうに話してんだよ、ったく」  夫はあきれたようにリモコンを放り投げた。そのままごろりとソファに横になる。それをじっと見届けて、もう一度窓の外を見やる。徐々に日が落ちてきている。まぶしい。 「今日のお夕飯何がいい?」 「あー。なんか適当に」 「適当が一番困るのよ」 「じゃあ麺類にしてくれ。そろそろ冷たいうどんとか食いたい時期だな」 「そうね、わかったわ。一緒に買いに行く?」 「めんどくせえよ」  夫はソファの上で寝返りを打ち、彼女に背を向けた。  立ち上がり、財布の中身を確認する。 家を出る前にもう一度外を見下ろすと。  夕暮れのオレンジ色の光が、ずらりと立ち並ぶオレンジ色の花を照らしていた。    *** 「あら。今年はこんなところまで種が飛んできたのね」  彼女はベランダに置いてある小さな植木鉢を持ち上げた。そこには、赤いガーベラの花に交じって、オレンジ色の花がひとつ。  目を外に遣ると、明るい昼下がりの日差しの中、オレンジ色のさざ波が見えた。駐車場の植込みの中だけでなく向かいの空き地にも、一面オレンジ色の花が咲き誇っている。 「あなた。植木鉢の中にまで入って来ちゃったわ。本当に繁殖力強いのね」  部屋の中にいる夫に声をかける。パソコンに向かっている夫からは返事がない。 「ねえ、あなた」  植木鉢を持ったまま部屋の中に入る。隣まで近づくと、やっと夫は顔を上げた。その顔が歪む。 「お前。部屋の中にそんなもん持ってくんなよ」  そう言って再び顔をディスプレイに戻す。  彼女はそのまま植木鉢を持ってベランダへ戻る。そっと下におろした。 「今日、お夕飯、どうする?」  ベランダから少し声を張って夫に尋ねる。 「あー、今日同期の奴と飲む約束してんだわ。いらねー」 「そうだったの」  彼女は植木鉢からオレンジ色の花を引き抜こうとしたが、やめた。  風が出てきたのだろうか。外では、先ほどよりも勢いを増したように、一面。オレンジ色が波打っていた。     ***   「あら、かわいい。今年はこんな色なのね」  彼女は何も植わっていないプランターの中に、去年と同じ花を見つけた。けれど、色は薄紫。 「これもかわいいわねー」  彼女はベランダで独り言を呟く。日が暮れかけているが、外はそれでもわかる一面のオレンジ色。他のプランターや植木鉢の中に生えているのもオレンジ色。今日は朝からずっとこのオレンジ色を眺めていたが、薄紫の花はベランダの一番端にあったので、気づくのが遅れた。 「光の加減ってわけじゃないわよね」  彼女は薄闇の中、プランターを抱える。外に向けて置いて、周囲のオレンジと見比べる。やはり、薄紫。  なぜか嬉しくなって、彼女はふふふとわらった。 「おい、ただいまっつってんだろ。どこにいる……って、なにやってんだ」  掃き出し窓がからからと音を立てて開く。夫が部屋の中からこちらを見下ろした。  彼女はゆっくり振り返り、微笑みながらプランターを掲げて見せた。 「なんだ、それ。……と、ちょっと待て」  夫がいつになく真剣な表情をした。それがおかしくて、彼女はぷっと吹き出した。 「……それ、もしかしてアツミゲシじゃないのか……?」  夫が自分で自分に言い聞かせるように言う。少し青ざめているのが珍しい。彼女は余計にわらいが止まらなくなった。  気分が良くなったから、その薄紫の花に口づける。 「ば、待てっ! それ、もしかするとヤバい奴だ!」  夫が彼女の手から乱暴にプランターを奪い取る。彼女はびっくりし、夫をめっと睨んだ。 夫はその視線に気づかず「これ、アヘンの奴だろ……」などとブツブツ言っている。 「ちょっと待ってろよ。連絡……て、どこに連絡すんだ。とりあえず警察か?」  ──警察にこの花を取られてしまうのだろうか?  そう思った彼女は慌てて夫からプランターを奪い返そうとした。 「おいっ、ばか、やめろって!」  男の力にはかなわない。プランターから無理やり手を引きはがされる。いたい。 彼女はベランダにぺたりとしゃがみこんでヒックヒックと泣き出した。  ……その横に夫がそっと腰を下ろした。 「おい、何泣いてんだよ」  肩を優しく抱かれ、彼女の口からふっと息が漏れる。 「なんかお前最近おかしいぞ。──大丈夫か?」  心配そうに顔を覗き込まれる。 頭の芯に、すっと一筋新鮮な空気が入った。  みつけてくれたのかもしれない。 「大丈夫よ」  顔を上げ、はっきりとした口調でそう告げる。こんな声を最後に出したのはいつだったろうか。  みつけてくれたのかもしれない。増殖するオレンジを。そこにうまく紛れ込んだ薄紫を。 「そっか、じゃ、俺警察に連絡するわ」  そう言うと、夫はぱっと彼女の肩から手を放した。勢いよく立ち上がる。 夫の目は物珍しそうにプランターの中の薄紫に注がれている。  彼女の存在を忘れたかのように。 「大丈夫よ」  彼女は呟いた。 「多分、今はまだ」  終わり
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