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筆跡の市場取引自由化が実現されてから四年と二か月。ついにイタリアの高級服飾ブランドが顧客向けの筆跡販売を開始した。キャッチコピーはこうだ、『永遠に色あせない輝き。本物の筆跡を貴方に』。
街頭の巨大モニターを見上げれば、筆跡鑑定士と筆跡好感度ランキング一位のタレントがワイドショーのゲスト席へ並び、各々こだわりの筆記具を手にしつつ、この最高級筆跡製品を話題に上げている。
Aはスクランブル交差点の一角に立ち、液晶画面に映るタレントの筆跡を見上げると、胸ポケットのクレジットカードをそっと右手で撫でた。唇の端が勝ち誇ったように持ち上がるのを、何度も良識で押し留めるけれど、どうしても顔はいやらしく不気味に微笑みを形作ってしまった。Aはこれから文字通りすべてを手に入れるのだ。
手書きの文字には人となりが現れるものだとは、遥かに昔から信じられている。IT技術の発達に伴って一度は下火になった信仰だが、技術の発展と悪用の攻防を百年ちょっと繰り返した末、民衆は再び手書き文字の不便さを心の拠り所として求めるようになった。いまや筆跡は人々にとって、唯一にして最大のステータスである。
子供を持つ親たちは子どもを何歳から書き方レッスンへ通わせるべきか、適正年齢の議論に日夜忙しい。最高学府への近道も、一流企業への就職も、すべて筆跡がモノを言うためだ。絶滅の危機に瀕していた習字教室はかつてない盛況ぶりである。夕方には小学生がレッスン室へぎゅうぎゅう詰めになってペンや筆を持ち、荷物用ロッカーの数が足りないものだから、廊下に通学用バッグが積み上げられているとも聞く。急な需要の高まりに、自治体や国からの支援を求める声すらある。
筆跡が重視されるのは何も、進学や就職だけではない。パートナー市場、何百年か前には婚活なんて呼ばれていた業界のことだが、ここでも筆跡が重視されている。いまでは収入、学歴、身長、あるいは出身地や肌の色、性別さえも飛び越えて『筆跡』の好みが人生の伴侶に求められているのだ。しかし取り違えてはいけないのは、単に読みやすく美しいだとか、丁寧だとか、一様な条件で選ばれているわけではないという点である。パートナーを探すにあたって、彼ら彼女らが重視しているのは『自分の好みの筆跡かどうか』ないし『自分と筆跡の相性がよいかどうか』である。突き詰めれば『筆跡さえ確かなら、それを書いた人間も確かだ』という理屈だ。婚姻届に書き入れたとき、並んだ筆跡のバランスも肝要になってくる。
Aが老舗百貨店に足を踏み入れるのはこれが人生で三度目である。
一度目は幼い頃、祖父に連れられて最上階のレストランへ来た。当時羽振りの良かった祖父は創業八十余年の中小IT企業の社長で、IDカードの偽造防止技術開発に腐心していたが、世の中がいたちごっこを辞めた途端の、急速なアナログ化に乗り切れなかったらしい。
二度目はつい半年ほど前のことで、これから受け取る商品の予約注文のため、四階の服飾フロアを訪れた。ちょうど、イタリアの高級ブランドが日本顧客向けに筆跡の受注生産受付を開始した日のことである。ファッションに疎いAであってもこのブランドの名前は知っている。たしか、最初はオーダーメイドの革靴から始まった店だとか。Aに靴の話を教えてくれたのは、昨年別れた交際相手だった。
洒落た店も、気の利いたプレゼントもできないAだったが、それでも『筆跡を見れば分かるわ、貴方が本当にやさしい人だってことは』と朗らかに笑ってくれた女性だった。度重なる資格試験と就職活動の失敗に際してもAを支えてくれた。
木漏れ日の差すオープンテラスで突如別れを告げられたとき、Aと彼女の間には一枚の紙片があった。
『この筆跡に一目ぼれしてしまったの。貴方のことは大切だけれど、自分に嘘は付けないから』
Aは彼女が置いていった紙片をまじまじと眺めたが、ゲルインキボールペンで殴り書きされた細身の字から読み取れることは少なかった。
いらっしゃいませ、とフロアスタッフが完璧な角度で上体を斜めに倒し、Aへ微笑みかけてくる。フロアにひかれた上等な絨毯を踏むたび、ふか、ふか、と奇妙な感触が靴底からAの足の裏へと伝わった。件の服飾ブランドのカウンター席はガラス張りのショーケースを兼ねていて、細工の細かな椅子が並び、当然のように店員は顧客のため背もたれを引く。Aが汗ばんだ手のひらをスラックスで拭きつつ腰を下ろすと、店員は用件を聞くまでもなくAの顔を当然覚えていて、「ご来店ありがとうございます。ご用意しますので少々お待ちいただけますか」と、にっこり笑って店の奥へ下がっていった。
Aは歓喜とも期待ともつかぬ震えが、しっかりした椅子の座面から背を這って喉元までせり上がるのに耐えられなかった。うずうずと口元へやってきたものが、出ていかないように上下の唇をぎゅうっと閉じ合わせるけれど、唇自体が弓なりになってしまうのを抑えていられなかった。
これからおれはすべてを手に入れる。
文字通りすべてだと思えば足と手の指はしきりに握ったり、開いたりを繰り返してしまって、こんな上等な見せてはしたないとは思いながらも、それだって筆跡を手に入れてしまえば済むことだった。
収入も、学歴も、身長も、見てくれも所作も育ちも失敗と挫折も借金も関係ない。筆跡さえあればすべてうまくいく。
誰もが認める高級ブランドの筆跡はぴかぴかの国産車が買えるほどの価格だったが、車や家の有無だって所詮は筆跡に左右される。銀行も、筆跡関係の結果如何でローンの審査を決める時代である。たとえ、いまは筆跡購入のカードローンを七十二回払いで組んでいても、上限額の引き上げをやっと了承してもらえるような筆跡でも、これから手に入る筆跡ひとつあれば上場企業の幹部さえ夢ではないのだ。さあ!
「お待たせいたしました」
スタッフの声にAが顔を上げると、スタッフのほうには顔がなかった。失礼、顔が見えなかったのだ。顔の見えないほど積み上げられたものは百科事典ほどの厚みの冊子、ざっと十数冊だった。
「ご契約時の誓約書にてご確認は頂いておりますが、あらためてご案内いたしますね。まず、当ブランドのコンセプトは『本物の筆跡を貴方に』というものでございまして、こちらは職人の手による最高品質の商品開発はもちろんのこと、一生モノの筆跡をお客様ご自身に身に付けていただくといった意味合いがございます。生まれ持ち、鍛え上げた筆跡のみならず、最近ではファストファッションの店舗でも、あるいはコンビニエンスストアでも筆跡を購入いただける時代となりました。誰もが気軽に使用できる筆跡はもちろん便利で価値あるものですが、当ブランドでお届けするのは、選ばれたお客様にのみお使いいただける代物です。カジュアルなスニーカーではなく、オーダーメイドの革靴のような。日々のお手入れを続けることによって、徐々にお客様の手に馴染み、指に染み付き、まるで生まれた時から一体の皮膚であったかのように自在にお使いいただけます」
Aは目をぱち、と一度だけつむって開いた。店員の微笑みは一瞬前と寸分違わず、なんのブレも澱みもなかった。
「お客様には、お手入れ用具を含めた筆跡商品一式でご契約いただいております。上から順に『ご契約約款』、『はじめての筆跡購入ガイド』、『筆跡初期設定ハンドブック』が各一冊ずつ。次に『五十音お手入れ帳〈ひらがな編・書き込み式〉』が二冊、同『カタカナ編』が二冊、『常用漢字編』が五冊ですが、本日お渡しできるのは三か月分の冊数となっております。以降、定期的に五十音編と常用漢字編をご自宅へお届けいたしますので、その都度、宅配業者の方へ使用済みのお手入れ帳をお渡しください。弊社で回収次第、職人にて添削チェックを行いまして必要に応じたサポートをご提供いたします。それからこちらが『アルファベット編』と『常用外・頻出漢字編』ですね。漢字に関してはお勤めの業界によって必要な文字数に幅がございますから、頻出漢字編にも収録のない筆跡は別途ご注文いただくシステムとなります。今回は、追加筆跡五〇〇文字まで無料サービスを含めてのご提供ですので、ご安心ください。ただし、アルファベット以外の外国語文字に感しては基本料金の対象外でございます、別途ご相談ください。繰り返しになりますが、当ブランドの筆跡は言わば高級な革靴です。手に馴染めば購入されたことさえ忘れるほどの心地よさをご提供いたします代わり、馴染ませるには相当な時間とお手入れを必要といたしますし、馴染まない筆跡を無理に使えば手や指に筆跡ズレを起こすでしょう。たかが擦り傷とお思いでしょうが、酷い時には化膿して日常生活に支障を来す点も靴ズレと同様です。特に最初はくれぐれもお手入れを欠かしませんよう。……といったところでご案内になりますが、何かご質問などございますでしょうか? ああ、それとA様は『ワンストップ筆跡入れ替えサービス』も合わせてお申し込みですから、ご契約成立時点で、現在の筆跡に関しては譲渡売却含めて弊社へ一任いただいております。承認がちょうど明日、通る予定ですから、それ以降現在の筆跡はご使用いただけませんのでご留意ください。それでは、専用筆記具のお渡しでございます。ふふ、ファストファッション店では陳列棚に大量に転がっていますからね、さぞ驚かれたことでしょう。さあ、どうぞお手に取って。慣れるまでは一日三〇文字程度を目安にお使いになってください、無理をされますと強い痛みでお名前のサインすら叶いませんから」
Aは震え汗ばんだ指をおそるおそる筆記具の柄にかけた。しっとり滑らかな質感が指の腹に吸い付いて離れそうになかった。
(了)
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