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川面にキラキラと朝日が反射する。
川にかかる大橋の袂にはちょっとした広場があり、ジャージ姿の私はそこで深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。気持ちの良い朝、だけど緊張がMAX跳ね上がる。
永野君が朝、走っているのを知ったのは偶然だった。吹奏楽部は体力勝負って所が結構あって、すぐ疲れる私は少しでも持久力をつけようと、2年生になってから毎朝走り始めた。 最初はほぼウォーキングだったんだけど、だんだん走れるようになって、距離も伸びてこの大橋も超えれるようになって、そして、永野君が走っていることを知ったの。
……どうしても「ありがとう」って伝えたい!
声が出なくてからかわれた私を、何度か助けてくれた永野君。
彼に「ありがとう」その言葉をどうにかして、ちゃんと伝えたかった。
「あ、あー、ありがとう。お、おー、おはよう」と発声練習しながら歩く。
腕時計を見て身だしなみを直し、ゆっくり橋を走り始めると、橋の反対側から永野君が来るのが見えて、汗ばむ手をぎゅっと握りしめた。
……静まれ、静まれ、静まれ、静まれ。
すれ違う!
「おう」と声を掛け片手をあげてくれる永野君。
「……」
で、出ない。声が……どうして?
私は真っ赤な顔を伏せ、なんとか小さく手を上げて通り過ぎた。
「やっぱり出なかった。私の、声」
うつむきながら三穂ちゃんに答える。
「……そう」
「それから、何度も何度も。近づくと、まるで体が固まって浮いたようになって、ぎこちなくなって、あれ、息ってどうやってやるんだっけ? 走るとき、足ってどれくらいあげるんだっけ? とか分からなくなって、まず胸が、そして喉がぎゅっと固まって」
私は、呼吸を一つ置いて気持ちを鎮めた。
「でもね、でも、それでも永野君、声かけてくれるし。私もなんとか手を振ることができるようになったし。少しは良くなってると思うんだ」
そして、ため息をついたあと「……たぶん」と付け加えた。
「そっかー」
「……でも、やっぱりしゃべれないとダメだよね。ちゃんと『ありがとう』も言えないや。ハァー」
グランドを見ていた三穂ちゃんが、クルッと勢いよく振り返り笑顔を見せた。
「ねえ、永野、誘ってあげよっか」
「えっ」
「ほら、今度一緒に行く花火大会。永野も誘ってあげよっか」
「えっえっえー……うっ、うっ」
「うっ?」
「……」
「ごめんごめん、固まった? ハハハ。冗談よ。冗談」
呼吸を整えて、グッと力を入れる。
「ねえ、三穂ちゃんも、三穂ちゃんも一緒にいてくれる?」
「え、うん。いいけど。誘う?」
「うん」
「いいの? 大丈夫?」
「うん、がんばる。……がんばる。がんばるけど……ちょっと待って、やっぱりダメかな。やっぱり、絶対、たぶん喋れない気もするし。ハッ、そうしたら気まずくなって、朝も一緒に走れなくなるかな。変な目でみられたらどうしよう。笑われたらどうしよう」
私は急に不安になって目を瞑った。メトロノームのカチカチという音に合わせて、ネガティブな妄想が頭の中に作られていく。小さくなった私は、みんなに笑われ汚い物でも見るような白い瞳に囲まれている。手を伸ばすとみんなが避け、心ない言葉や嘘ばっかり書かれたSNSのひどい文字が無機質にグルグルと私の周りを駆け巡った。永野君も後ろを向いて遠ざかっていく。取り残された私は惨めで、体の奥がグジュグジュと気持ち悪くなって、自分が嫌になって、自分を潰して潰して潰して潰して……
「私クラス違うからよく知らないけど、永野ってそんな奴?」
三穂ちゃんの声にハッと我に返る。
「ううん。絶対違う」
私は大きく首を横に振って嫌な妄想を振り払った。
「人のこと馬鹿にするの大嫌いって。昔、何度か助けてくれたんだ。だから私。ずっと、ちゃんと『ありがとう』って言いたくて」
そう、永野君は私が言葉が出ずに笑われている時に間に入ってくれた。私の周りの白い瞳で囲われた凍えた空間と、その周りにある軽薄な笑い声響く生ぬるい空間の間に、ガッと一歩足を踏み入れて「人のこと馬鹿にするの大嫌いって」確かに皆んなに言ってくれたんだ。
それなのに私「ありがとう」ってちゃんと言えなくて。
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