三日目

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 逃げ出して、逃げ出して、追い付かれる前に消えてしまいたくて。  辛くて。  もがれたままで。  苦しくて、嫌なのに。  それなのに、目の前に苦痛がなければ安心できなくて。  いつ。  いつ。  いつ。  いつ痛みがやってくるのか。  怯えと想像に神経を尖らせて、骨を折って。  むしろ、傷つけてほしくて。  のびのびと、体を沈める。弾力と柔軟が、腰や背中を受けとめる。  深く深く息をついた。  こんなことができるなんてと、心外な事実に飛び跳ねたくなる。  だけど、息が止まる。のんびりとしている、なのに急に不安になる。自分を見透かしてしまうような、感覚。  なんで、何もしないのだろうか。  何故、彼は僕を痛め付けないのだろうか。  不意に蘇った疑問が、牙のように襲ってくる。  彼は初めて理解できない人で、僕の僕が生きるために作り出した常識を忘れさせる人で。  本当に、何もしないのだろうか?  こんな風にのんびりさせて、影で嘲笑っているのではないのだろうか?  でも、彼は。  だけど、彼は僕をのんびりさせてくれる。ご飯もくれて、ベッドで眠らせてくれる。  しかし、なぜ、でも、なんで、だけど、どうして。  ぐるぐると現実と事実が巡る。いつも僕はずきずきとしてたのに、彼はぬくぬくさせてくれる。  でも、僕は。  だけど、僕は痛くなくちゃいけない。悲しくて、びくびくしていなくちゃいけない。  気付いて、立場をわきまえる。それで、ちょっとした自惚れを自覚する。そして、緊張が帰ってくる。  耐えきれなくなったのは、彼ではなく僕の方だった。  彼は何もしない。僕を奪ったり、殺したりしない。そんなはずはない、彼はきっと嘘をついている。それを見抜こうとする。  安心して気持ちが解されていたなと思い返す。そして、彼の作戦を推測する。  きっと息継ぎを狙い水中に引っ張るように、僕を痛くするに違いないから。  そんなことは嫌だ。  ひょっとしてなんて考えてしまった自分に恥じる。それから、万が一と思わせる彼に悲しむ。  ただ無駄に怯えていると、くたびれる。むしろ、早く傷つけてほしい。怖いのに、待っている矛盾。  そうするしかない。  もどかしさにへばる前に、決意に行動をする。  彼は眠っていない。まだ僕の気配を窺うように息を詰めている。  こんな僕でも、始めることはできる。  早くして、我慢はできるから。  震える足は頼りなくても、前には進める。そうして、彼の前に立つ。  怪訝そうに彼は起き上がって、こちらと向き合った。  さら、さらさらり。  素早く、ガウンを脱いでいく。滑る布は引っ掛からずに、体を晒していく。皮膚に夏の湿った空気が突き刺さる。  上半身、下半身。すべて、脱ぎ捨てる。  ぱさりとガウンが山になる音が聞こえる。頭から血の気が引いていく。  こんな時、僕は何を考えているのか解らなくなって、血が沸騰しそうなのを感じる。  暗闇に肢体が浮かび上がる。彼は僕を見た。  見開かれた両目が、暗がりに寂しく光る。  恐る恐る、彼は手を伸ばす。そして、戸惑うように僕の胸を触った。  揉むとか、そんな卑猥な動きではなく確認するように。肩の柔らかな曲線をたどり、鎖骨をなぞる。そして、指が離れる。彼の指が僕から剥がれ落ちる。拒絶するように、否定するように。  だから、僕は彼に抱きついた。  吐息を耳に押し付け、胸の筋肉を辿る。彼の筋肉が僕の動きを受けて震える。そのまま下腹部を撫ぜる。熱くて溶けてしまいそうな体温が、手の平に伝わる。  人間扱いなんかしないでほしくて。  祈るように懇願するように、彼に触れる。  中途半端は恐ろしくて。  今までこんなに必死になったことはないと思い出して、笑いたくなるけれど。  壊してほしくて。
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