五日目

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「空の色」  彼の目尻を撫ぜる。僕の手を取り、そうっと彼も自分の目尻をなぞる。納得したのか、彼は頷く。そして僕を抱きしめた。  写真集が床にぱたりと落ちる。彼は拾わない。  包み込むような感触は柔らかくて穏やか。苦しくはない。むしろ、深い息を吐けば心地よくさせる。僕はおそるおそる身を任せる。彼は僕の頭を摩擦する。何度も繰り返しそうする。  彼の言った予定通り夕方にこのモーテルを出た。  その間、空を見上げる。見える空は真っ黒で、所々にオレンジの雲が這っている。乾ききった、感慨のない黒。あの空はどこにあるのだろうかと何度も頭で考えた。  彼の手を握り締める。  それは初めて感じる期待の表れ。どこに行くのだろうかと弾んでしまう心の変化。  この空の瞳を持つ人は、なぜ僕を運ぶのだろう。  どうして、目的地を僕に聞くのだろう。  その日も、彼はどこかのモーテルに入った。  彼は僕を膝に抱いて食事をとる。僕も彼の膝に乗りながら、スパゲッティを食べた。彼は僕の口をティッシュで拭って、幸せそうに僕の頭頂を擦る。  それから、空の写真を二人で眺めた。  彼の瞳と空を比べる。やっぱり、そこには空と同じ色に染まっている。  写真の中には、昼下がりの街角を映しているものもあった。  それは街というより、太陽の色を映し出そうとしているものだった。  地下室にも、室内にも陽光が差し込むことがあった。銀色の鋭く静かな光の記憶。  だけど写真は、金色に街が輝かせている。それは、賑やかで優しい。  彼が俯き、視界にさらりと金色の髪が入り込む。痛んでもいない、絹のように光が滑っていく。  太陽色みたいだとしみじみしたり感動したり。  そうしてまた彼を見る。そこには空と太陽を纏う、やつらではない人がいる。  もしかしたら彼は、人間ではないのかもしれない。  やつらはみんな黒い夜みたいな髪や瞳をしていた。たまに彼のように金色に擬態するやつもいたけれど、色の透明感が違っていた。そして、根元から本性が現れていた。  彼の印象を思い出す。この世界ではないような、そんな思いをいつも抱いた。  それを恐怖した。知らなかったから、解らなかったから。  しかし、彼は僕に何もしない。  彼は、彼なら、僕を傷つけたりはしないのではないのだろうか。  彼の体温はふわふわする。やつらと重ねることのできない質感。はねのけることのない温かみ。  彼はやつらのいない、青空に連れてってくれるのではないのだろうか。 「ねえ」 「何」 「僕を、あそこから、連れ出してくれる?」  キョトンとする彼に俯いてしまう。それはできないのかなと泣きたくなってくる。不安と悲しみが一緒になって寄り添おうとしてくる。  すると、彼は僕の頭をぐちゃぐちゃにした。 「最初に行ったじゃないか。君を逃すために俺はここにいるんだよ」 「逃げるって、何」  彼は僕を抱きしめてくれる。いつかなくなっちゃいそうな柔らかい体温がぴたっとくっつく。 「逃げるっていうのは、君があそこから出ることだ」 「僕は、あそこにいなくていいの?」  彼は頷いた。嘘みたいに軽く彼はそうした。  僕は信じられない思いと、疑いたくない思いでごっちゃになる。  だけど、青い瞳はそこにある。遠い世界にいるような綺麗な色が。 「僕、そこに行きたい」 「え」 「その目の中がいい。どこでもいいの、青空、そこにあるの」  彼は僕の頭を“撫ぜた”。 「あ」と僕は声を漏らす。 「どうしたの?」  そんな。そうだ。なんで今まで気付かなかったのだろう。解らなかったのだろう。 「違うの。もっと、撫でて」  離されそうになって頭を押しつける。すうぅと、思考が澄んでいく。そして、ようやく僕は自分の間違いを訂正した。  彼は、いつも僕を撫ぜていた。  僕はなんだか怖くなってしまう。その不安を読み取ったように、彼は僕をぎゅっと抱き締めた。僕も彼に抱きついた。しがみついたような僕の不器用な抱きつき方でも、彼は優しく受け止めてくれる。  その日は、彼とともに体を寄せ合って眠った。彼は眠る前に額にキスをした。  僕はバラバラになった記憶から、昔に父や母にこうしてもらって眠ったことを再生した。  彼の腕の中に収まって眠ると、不思議に僕は安心した。そよ風のような彼の寝息と、暖かい彼の腕。  これは夢ではないのだろうか。  それとも、とうとう僕は発狂してしまったのではないだろうか。
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