六日目

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六日目

 翌日、僕は彼に揺すられて目を覚ました。睡眠の延長線にある覚醒は、軽やかに朝日を知覚させていく。夢の名残はなかった。  くしゃっと蹴飛ばされたシーツと、汗に滲む枕が皮膚を冷やしていく。 「どうしたの?」  彼が僕の前髪を掻き上げて、少し心配そうに覗き込んできた。目を開けるだけで動かない僕を案じているようだった。杞憂だと伝えるように、彼の首に腕を回す。 「起きた。僕、怖い夢なかった」  口に出して、安眠の事実に驚く。そうだ。僕は熟睡していたのだ。  睡魔が奈落への一歩になることも、時を飛ばす作業にすることもなくぐうぐうとしていた。鮮やかな離床を伝えたくて、ぎゅっと腕に力を込める。  彼からは寝起きの匂いがした。室内には快眠の気配が漂うだけで、やつらの影もない。 「そうか、よかった。おはよう」 「おはよう」  そうした、小さな差異が嬉しかった。本当に僕は、あの地下室から出られたのだ。そう思った。 「何か、食べる? とは言っても、カップラーメンとかしかないけど」 「食べない、昨日いっぱい食べたよ。まだ平気」 「そう。じゃあ何か飲む? コーヒー、紅茶、ココア、緑茶。さあ選んで」 「ココア」  彼は頷くと、そっと僕の手を解いた。立ち上がった彼に僕も急いで起き上がる。磁石みたいに彼にひっついた。不安だったわけじゃない、思いっきり彼のそばにいたかった。皮膚に彼の温度をたくさん取り込みたかった。 「なーにー」  テレビの下にある棚から備えつきのカップを取り出すために、彼が屈んだ。隙を見つけたように、僕は彼の甲羅になる。背中に張り付いて猫のように擦りついた。 「ぎゅってすると、生きてるから。冷たくないし、臭くないし、怒らないね。痛くないし、苦しくないし」  感情が先走り言葉が溢れる。頭ではきちんとしているのに、舌に転がすと上手く喋れない。  彼はそんな僕を邪険に扱うこともなく、ポットに湯を入れていく。肩越しに立ち上がる湯気を見ていた。 「暑くはないの?」  肩に顎を乗せる僕に彼は苦笑する。 「ぎゅっとしちゃ嫌?」 「いや、いいよ。うん、嬉しいし」 「嬉しい?」  繰り返すと、彼は頷いた。僕をそのまま引き摺りソファに腰掛ける。背中から回り込み、今度は彼の胸に額を寄せる。 「僕も嬉しい。あったかいし、暗くないし、割愛してとても最高」  定位置となった膝に座り、カップを手にする。目から離すのも惜しくて、向かい合いながら口に含んだ。 「甘いし、美味しいし。ありがとう」 「どういたしまして」  見つめあうと、嬉しかった。何度でもそうしていたかった。延々と続いても飽きなかった。  今まで、こんなに満たされたことはなかった。すり減らしたものを取り返すように、執拗に彼にまとわりつく。  それは、偽りじゃないと確信したかったから。そして生きていることを感じたかった。 「青いし、黒くないし、幸せ。うん、幸せ」  使用を断念していた言葉を口にする。喜びを余すことなく彼に伝えたかった。失意がないことを僕に浸透させたかった。  彼といると、やつらに奪われていた僕が戻ってくる感覚がする。のんびりすることもできるし、彼が手を振り上げても身をかたくなんてしない。  ああ、僕はこんな人だったのか。他人事で自分を観察する。彼の視線に気付き、僕は少し迷って軽く頬に口付けた。  彼はちょっと驚いた顔をして僕を見た。ぱきりと音がしそうなほど、直線的な動作で鼻を掻く。 「こうさ、なんというか人からやられると」 「うん?」 「あの、ちょっと。ど、ど、ど」  彼は鼻を掻いてそっぽを向く。声が上ずっていた。 「ど?」 「ドーナッツのド、じゃなくて、どき、ど、鈍器みたいだねー」 「鈍器?」  連想するものに眉を寄せると、彼は慌てて手を振った。 「違うんだ、あの、どき、土器発掘みたいな気持ちになって。いや嘘で、あの外部からの刺激で鼓動が激しくなるって、ことで」 「……」僕は首を傾げる。 「うん、まぁ、いいか。何、照れてるんだよなぁ。まぁまぁ、写真でも見よう、そうしよう」
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