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彼は僕を引っ繰り返し、昨日から床に落ちたままの写真集を拾う。ソファにころころ転がり、僕は彼の後頭部を見た。耳が赤い。
「どうしたの? 痛い?」
「いや、なんでもない。おいで」
座り直した彼が膝を叩いた。そうして、二人で空の写真も眺める。時折彼を振り返ると、彼は何も言わなくても僕の頭を撫ぜてくれた。
改めて彼を感じ取り、僕は面はゆくなって俯いてしまう。けれど、嫌ではないと伝えたくて彼の胸に顔を埋める。そうすると、感じるのは彼の動きだけになる。
肘が、手首が、揺らめくたび風を起こし僕の肌に吸い付き止まる。
「君ってさ」
「君ってさ?」
「猫、みたいだね」
「にゃーん?」
「にゃーん」
昼過ぎまでそうしていた。
そうして、外に出ると雨が降っていた。彼はフロントで傘を購入する。透明のビニール傘で、広げると僕と彼がギリギリおさまるくらいだった。
僕は目深く帽子をかぶり、彼も曇っているというのにサングラスをかける。彼を見上げると、灰色の空も瞳に入り込む。
ビニールにへばりつく雫を眺めて思った。
ここは、灰色からも、真っ暗からも隔絶されている。ここだけは別の世界だ。彼といれば僕は雨に濡れない。ここにいれば青空が近くにある。
「少し涼しい、雨がさらさらする」
地下室ではないなと、僕は深呼吸する。開放的な風の流れは雨の匂いがした。
「ずっと、中にいっぱなしだったしね」
彼は周りに視線を巡らせて、考えるように傘を回した。
「ここは、安全な場所だからさ。少し散歩しようか」
彼はそう笑い、僕の手の平を握り締めた。僕は彼に密着して頷く。
外に出ても急がずに、景色を眺めるように並んで歩く。大きいが朽ちたビル、季節外れのおでん屋、見知らぬ景色が自然に通過していく。焦燥もなく、どこか呑気さを伴う道だった。
「明日には、この街を出るよ。船に乗るんだ」
「船?」
「そこまでが勝負かな。ここはともかく、そのルートは……」
まぁいいか。彼は言葉を区切る。繋いだ手の平に力を込めてきた。サングラスのせいで僕は彼の感情を窺えず、ただ見上げる。
「街を出たら、こうやって普通に外も歩けるよ。そうしたらさ、ピクニックでも行こうよ」
「ピクニック?」
「うん。おにぎりくらいなら、俺も作れるだろうし」
「楽しみ」
「青空の下さ、どこか公園とかにでも。その時は、うん、君にワンピースとか買ってあげるよ。水色の空と同じ色のやつ」
彼は僕を女の子だと思ったようだった。一瞬だけぽかんとする僕に、彼は気付けない。
どっちなのかなと思ったけど、僕は頷いた。
そうやって僕と彼はこれからを語り合った。なんだかくすぐったい話だった。
卵のような感じだ。そっと扱い、温めて、羽化させる。そんな、育みがあった。
花屋の前を通りかかる。香りと、色彩に目を奪われるように僕は足を止めた。つい店内に吸い込まれてしまう。彼も傘をたたみ、僕の後に続いた。
二人で飾られた花を眺める。
「ひまわり、黒百合、リコリス」
僕の視線をなぞりながら、彼が花の名前を口にする。細かい花に華やかな花。色とりどりの夏の花は、こんな空でも季節を誇るように開いている。
店内は僕たちだけではなかった。客だろうか、真っ白な髪の少年が黒い花を見つめていた。幾重の花びらを身につけた花は華麗だけど、少年は沈痛そうに眉を寄せている。
少年と、黒い花に目を止めた僕に彼が口を開く。
「ブラックダリア。綺麗だね」
僕は頷いて、だけども首を振った。
「黒、嫌い。綺麗でも、怖いもん。魔女みたい」
「何色が好き」
「赤と黒は嫌。青がいい。青い花ないね」
「青は難しいからね。薔薇も青を作るのに苦労したっていうからな。もうちょっと早ければ紫陽花もあっただろうけど」
「でも、みんな綺麗」
鼻を近付けて匂いを嗅ぐ。切り取られても花は生きている。その生命の強さが、少し羨ましかった。
店内から出ようともしない僕は、彼にとって意外だったようだ。物珍しそうに花より僕を見ていた。僕の関心が薄さは、少しの間と言えども理解していたのだろう。
僕にとっても意表だった。まさか、花の美しさに魅入られる自分がいるとは思わなかった。
「好きなのを選びなさい」
忍び笑いをするように、彼が言う。
「買ってあげるよ」
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