六日目

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 彼は僕を引っ繰り返し、昨日から床に落ちたままの写真集を拾う。ソファにころころ転がり、僕は彼の後頭部を見た。耳が赤い。 「どうしたの? 痛い?」 「いや、なんでもない。おいで」  座り直した彼が膝を叩いた。そうして、二人で空の写真も眺める。時折彼を振り返ると、彼は何も言わなくても僕の頭を撫ぜてくれた。  改めて彼を感じ取り、僕は面はゆくなって俯いてしまう。けれど、嫌ではないと伝えたくて彼の胸に顔を埋める。そうすると、感じるのは彼の動きだけになる。  肘が、手首が、揺らめくたび風を起こし僕の肌に吸い付き止まる。 「君ってさ」 「君ってさ?」 「猫、みたいだね」 「にゃーん?」 「にゃーん」  昼過ぎまでそうしていた。  そうして、外に出ると雨が降っていた。彼はフロントで傘を購入する。透明のビニール傘で、広げると僕と彼がギリギリおさまるくらいだった。  僕は目深く帽子をかぶり、彼も曇っているというのにサングラスをかける。彼を見上げると、灰色の空も瞳に入り込む。  ビニールにへばりつく雫を眺めて思った。  ここは、灰色からも、真っ暗からも隔絶されている。ここだけは別の世界だ。彼といれば僕は雨に濡れない。ここにいれば青空が近くにある。 「少し涼しい、雨がさらさらする」  地下室ではないなと、僕は深呼吸する。開放的な風の流れは雨の匂いがした。 「ずっと、中にいっぱなしだったしね」  彼は周りに視線を巡らせて、考えるように傘を回した。 「ここは、安全な場所だからさ。少し散歩しようか」  彼はそう笑い、僕の手の平を握り締めた。僕は彼に密着して頷く。  外に出ても急がずに、景色を眺めるように並んで歩く。大きいが朽ちたビル、季節外れのおでん屋、見知らぬ景色が自然に通過していく。焦燥もなく、どこか呑気さを伴う道だった。 「明日には、この街を出るよ。船に乗るんだ」 「船?」 「そこまでが勝負かな。ここはともかく、そのルートは……」  まぁいいか。彼は言葉を区切る。繋いだ手の平に力を込めてきた。サングラスのせいで僕は彼の感情を窺えず、ただ見上げる。 「街を出たら、こうやって普通に外も歩けるよ。そうしたらさ、ピクニックでも行こうよ」 「ピクニック?」 「うん。おにぎりくらいなら、俺も作れるだろうし」 「楽しみ」 「青空の下さ、どこか公園とかにでも。その時は、うん、君にワンピースとか買ってあげるよ。水色の空と同じ色のやつ」  彼は僕を女の子だと思ったようだった。一瞬だけぽかんとする僕に、彼は気付けない。  どっちなのかなと思ったけど、僕は頷いた。  そうやって僕と彼はこれからを語り合った。なんだかくすぐったい話だった。  卵のような感じだ。そっと扱い、温めて、羽化させる。そんな、育みがあった。  花屋の前を通りかかる。香りと、色彩に目を奪われるように僕は足を止めた。つい店内に吸い込まれてしまう。彼も傘をたたみ、僕の後に続いた。  二人で飾られた花を眺める。 「ひまわり、黒百合、リコリス」  僕の視線をなぞりながら、彼が花の名前を口にする。細かい花に華やかな花。色とりどりの夏の花は、こんな空でも季節を誇るように開いている。  店内は僕たちだけではなかった。客だろうか、真っ白な髪の少年が黒い花を見つめていた。幾重の花びらを身につけた花は華麗だけど、少年は沈痛そうに眉を寄せている。  少年と、黒い花に目を止めた僕に彼が口を開く。 「ブラックダリア。綺麗だね」  僕は頷いて、だけども首を振った。 「黒、嫌い。綺麗でも、怖いもん。魔女みたい」 「何色が好き」 「赤と黒は嫌。青がいい。青い花ないね」 「青は難しいからね。薔薇も青を作るのに苦労したっていうからな。もうちょっと早ければ紫陽花もあっただろうけど」 「でも、みんな綺麗」  鼻を近付けて匂いを嗅ぐ。切り取られても花は生きている。その生命の強さが、少し羨ましかった。  店内から出ようともしない僕は、彼にとって意外だったようだ。物珍しそうに花より僕を見ていた。僕の関心が薄さは、少しの間と言えども理解していたのだろう。  僕にとっても意表だった。まさか、花の美しさに魅入られる自分がいるとは思わなかった。 「好きなのを選びなさい」  忍び笑いをするように、彼が言う。 「買ってあげるよ」
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