六日目

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「いいの?」 「いいよ」  彼を見上げると、口元を和らげて頷いてくれた。僕は並べられた花に顔を寄せる。どれも素敵だった。選べと言われると、迷ってしまう。  華美な彩りをきょろきょろと見回し、ふと止まった。鮮やかな花はどれも輝くようなのに、暗く沈んだものもあるのに気付いたからだ。 「あれは菊だね」 「可愛い、静か」 「この国では、お墓とか仏壇に供えるんだ」 「あれは」  その隣の花を指差す。可憐で、どこか哀しげな淡い紫。中心に蕾が集まったように丸く、その周りに羽のような花びらが広がっている。楚々とした雰囲気が、あどけなかった。 「なんだろうな、蓮じゃあないし」  彼は顎を掻いて、首を捻る。迷ったように視線を彷徨わせ、降参するように肩を竦めた。 「見たこと、ないな。夏の花では、あるんだろうけど」 「マツムシソウですよ」  知らない声に振り返る。さきほどの白い髪の少年が笑いかけていた。  花を指差す少年に、彼は怖じけずに笑みを繋ぐ。 「へえ、面白い名前だな。マツムシソウ、ね」 「松虫が鳴く頃に咲くかららしいですよ」  僕はマツムシソウに視線を戻す。夜明けの色のような花びらを突いた。 「ヨーロッパでは紫は悲しみを表わすらしいので、花言葉がちょっと切ないんですけどね。でも、マジ綺麗ですよね」  僕は頷いてから、彼の袖を引く。 「これが好き」 「解った」  彼がマツムシソウを指さす。一本だけかと思ったのに、花束を頼んだ。  包んでもらっている間、彼が少年に話し掛ける。 「花言葉に詳しいの?」 「……まぁ、花は好きなんで」  店員はひょいひょいと花束にして白いベールのような紙に包む。店員から花を受け取り、僕は両手に抱えて匂いを嗅いだ。  彼は僕の肩を寄せると、傘を広げた。歩きだそうとして、しかし振り返った。  マツムシソウを指差し、少年に呼び掛ける。 「これの花言葉って何かな」 「……マジでいい意味ではないですよ」  僕は彼の背中に腕を回した。少しだけ身震いして、花を見つめた。暗い紫の花びらが僕の頬を撫でた。 「いいよ、たかが花言葉じゃない」 「そうですね……。私はすべてを失った、です」  言葉の不吉さとは逆に少年はにっこりと笑顔を作る。つられるように、彼も穏和な表情になった。 「そうか、ありがとう」  彼は手を上げて、少年に別れを告げる。  歩き始めると、先程より強くなった雨が前方から霧のように降り掛かった。彼は傘の位置を調整をしたけれど、マツムシソウは雨に濡れてしまう。  泣いてるみたいな様子がいじらしくて、僕は守るように身を屈める。 「私はすべてを失った、か」  彼がぽつりと呟いた。 「悲しい」  僕も一言呟く。口に出すと、マツムシソウが悲壮に満ちるような気がした。だけども彼は明るい声で続ける。 「そうかな。俺はいい言葉だと思うよ、今の君にぴったりだ」  ぴったり。彼が何を言いたいのか解らなくて、僕は黙ってしまう。 「すべてを失ったんだ。すべてなんだから、悲しいこともなくなっちゃったんだろう」  視線を合わせると、彼は優しく僕の手に触れた。指を絡めて、離れないように握り締める。 「君はすべてを失った。でもこれからは増やしていけばいい、俺がそばにいるよ」  彼の言葉は血の香りがする。痛めつけられ流したものではなく、生きている。彼は僕に言葉で輸血してくれる。瀕死の僕に暖かな血液を送ってくれる。  僕はそれだけで浮かれられた。 「ありがとう」  日が暮れて、僕らはとまり木を探す鳥のように室内に逃げ込んだ。  帰り道買ったケーキをそれぞれ自分の口ではなく、相手の口に差し出して食べた。何かするにも、相手を介した。幸福に熱中したかったし、忘我してのぼせ続けたかった。彼はそんな僕に文句も言わず付き合ってくれる。  膝に座っていても僕は身を乗り出して、彼の手から苺を口にした。彼は僕が差し出すチーズケーキを頬張った。  夜になると、僕らは同じベッドに横になった。彼は僕を抱きしめ、体に熱を伝える。二人の汗がこもったけれど、心地よかった。  蛍光灯の乾いた無機質な光が彼を照らす。薄暗さは彼の青を引き立てる。僕は、彼の額にキスをした。 「おやすみ」 「おやすみ」  誰もいないのに声を潜める。それは、挨拶でも声でも、二人の空間に閉じ込めたかったのかもしれない。  彼にくっつき僕は彼の生きてる香りで鼻腔をいっぱいにする。幸せだった。  彼は僕の頬を軽く擦る。これから、どこに行くのだろうか。彼となら安心だ。いつまでも眠らない僕に彼は明日の予定を語る。もう眠りなさいとたしなめられても、彼との時間を無意識に過ごすなんてもったいなかった。  時間が過ぎれば過ぎるほど実感する。僕はあそこから逃げ出したのだ。もう帰らなくてもいい。この瞬間をもっともっと吸い込みたかった。彼といることを実感したかった。  彼は僕の前髪を掻き上げキスをした。そうして、何かの歌を歌った。僕はその歌声に導かれるまま、睡眠に落ちていく。  微睡みの中、彼を意識するのは楽しかった。  僕らは離れなかった。ずっとそばにいた。
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