七日目

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七日目

 僕らは逃げ惑っていた。  どうしてこうなったのだろう。僕は状況が理解できない。ずっとそばにいたかった。いつまでもそばにいて欲しかった。そうなると僕は根拠もなく信じていた。  僕に現実が追いついたのは港だった。これから彼とどこかへ向かう、その時だった。  僕は背後の圧力に身震いして、違和感を覚えた。彼は僕が認識するより前に、追跡者に気付いた。僕の手を引き、走り出す。どうしてこうなるのか解らなかった。しかし、直感でやつらが来たと教えてくれた。考える間なんてなかった。僕と彼は港と逆方向に駆けている。道路から、道路へ。アスファルトから、植え込みを抜けて。  空からは雨が飽きることなく降り続いていた。濡れた地面は黒く染まり、足元を映し出す。僕と彼は息を切らし、建物に入り込む。  大音量のミュージックが耳をつんざいた。ぬいぐるみを詰めたクレーンや、スロットがめちゃくちゃに並んでいる。混み合ったフロアを掻き分けて、ただ奥に進んでいく。人にぶつかるたび、手にしていたマツムシソウの花びらが散った。その先にはドアがあった。それを確認したが、入り口を塞ぐように影が現われる。やつらだった。  彼は胸元から、銃を取り出した。迷うことなく進むままにトリガーを引く。発砲音がして、彼から衝撃が流れ込んできた。遅れてやってきたのは悲鳴で、僕と彼は気にせずに外へ飛び出す。  雨はやまない。さめざめと僕らを濡らしていく。爪先が滑りそうになり、視界がズレた。やつらがいる。やつらがいる。恐怖と焦りが、体を転ばせない。やつらがいる。  やつらがやってくる。追い掛けてくる。  そうだ、僕はそれを知っていたのに忘れていた。僕に希望なんてものはちっともなくて、ただ悲しんでいればよかったのに。幸せになれるだなんて、運命を模造しようとしていた。  僕は走った。彼も走った。振り返れなかった。忌避したかった。不可避だというのに、虚実に隠蔽しようとしていた。  背後から追跡者の圧力がある。やつらだ。やつらが来た。彼の手を握った。強く、離れないように。  息が上がる。喉が焼ける。彼はまた建物を抜けて、裏道に入る。入り組んだ路地ならば、やつらを撒けると踏んだのだろう。  その瞬間だった。銃声がしたのは。  彼が呻きをあげ、前のめりに倒れかけた。繋いでいた手のまま、僕の目の前にもコンクリートが迫る。しかし、僕は地面に衝突しなかった。彼が、僕を受け止めたのだ。  彼と地面を転がり、僕は顔を上げる。紫が、花束が地面にバラまかれていた。彼が息を乱し、喘ぐ。  精一杯僕に笑いかけると、彼は逃げろと言った。 「早く、逃げて」  その青い瞳に諦めの影がある。あんなに走ったのに、肌は蒸気よりも青ざめていた。彼は手にしていた銃を僕に握らせる。 「あと、二発だけだけど」  彼の腹から、赤い血が染み出していた。黒に近い、膿のように鮮明な流血が。  僕は首を振る。打ち消したかった。血に塗れた彼を、置いてなんていけるはずがなかった。そればかりじゃあない、彼が傷ついた事実を偽りたかった。彼の血を止めたくて、でもどうしたらいいのか解らなくて。 「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌、いやいやいや」  叫べばどうなるものではなかった。一心不乱に、ただひたすらに嫌だと叫んだ。彼といることに後悔なんてしたくなかった。もしかしたら、声を張り上げれば神様がどうにかしてくれるかもしれない。馬鹿な錯乱だと言えど、すべてに縋りつきたかった。  僕の頭を彼は撫ぜる。その手の平には、一途な生気があった。ただ僕を安心させるために平常を装う、そんな努力に震えていた。  僕は離れまいと彼にしがみついた。まだ、大丈夫。そう言ったのかもしれない。  けれども、僕は彼と引き離される。髪を捕まれ、彼の温もりと遮断される。僕は手を伸ばす、彼も僕を守ろうとした、しかし無駄だった。指と指が触れ合い、擦り、掴み合えずに落ちていく。  やつらは彼を取り囲み、彼の手を踏み潰す。マツムシソウが無残に蹴り散らされて、花びらが彼の血に浸される。僕の短い手は、無力な指は、彼に届かない。やつらが下卑た声で彼を罵倒し、醜行に耽りはじめる。血と暴力に酔った狂態の餌食は、彼だ。  もしかしたら、これは、また、幻覚ではないのだろうか。そう思った。そうだ、夢に違いない。悪夢を見ているんだ。  ねえ、助けて。そう縋りつきたかったのは、神様だったのか、彼だったのか。  僕を起こして。僕、痛いよ。怖いよ、苦しいよ。また地下室にいっちゃうよ。ねえ、「悪夢なんだ」って教えて。震えながら、抱き締めて。頭を撫でて。血の匂いがしても、予測不可能でも。そうして、目覚めさせて。やつらじゃない、空の色を見せて。たとえ、真っ暗闇でもよかった。  彼といれればよかった。ずっとずっとで。二人で。遠くて。暖かくて。  しかし、やつらはここにいる。起こしてくれる、彼の姿もここにある。青い瞳は僕を見ている。叶わぬ夢想だと、全身で伝えている。  僕らは捕まってしまった。  彼を呼び戻したかったけど、僕は彼の名前を知らない事実を突き付けられる。名前だって聞いていないのに、まだやりたいことがいっぱいあるのに。  彼が歯を食い縛り暴力の嵐に耐えている。時折、喘ぎな呻きが混じる。彼は抵抗なんてしなかった。彼のシャツに赤が滲む。面積を増やす。  このまま、彼はどうなるのだろうか。僕はどうなるのだろうか。僕はやつらに懇願した。彼に生きてほしかった。僕は生きていたかった。二人でどこまでも行きたかった。  彼の血が地面に落ちていく、だけど赤は雨に消されて地面の黒と同化する。やつらが暴れるたびに、マツムシソウが舞い上がる。紫が雨に打たれて、ひしゃげていく。  どうしてこうなったのだろうか。僕なんて、ほっといてもいいじゃないか。叫んでも、喚いても、泣いても、何をしても無駄だった。  僕はやつらに拘束される。もう逃げられると思うなよ。いつか聞いた台詞が再生される。僕は彼を見ていた。彼はここにいる。僕を、起こしてくれることはない。彼はやつらに拘束されていた。僕を見つめ、それでも、安心させるように笑う。優しい顔はこんな状況でも変わらない。
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