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俺は大丈夫だから。俺に構わず、逃げて。そう言っている瞳だった。別の世界にいるような澄んだ色。浮き出る汗か、雨か、金色の髪は額に張りついていた。
君だけは生きて。
僕は首を振る。やつらの手を振り払おうと、死に物狂いで手をばたつかせる。ねえ、誰か助けて。だって、僕はまだ。彼は、まだ。青空だって見てもいないじゃあないか。
やつらの手の平が僕の喉を締め付ける。頬が熱い、額が爆発しそうだ。懸命にやつらの腕を掴み、爪を立てる。でも全然、弛まない。むしろ締め付けは厳しくなる。銃でやつらの腕を殴った。僕の力では、やつらからは逃げられない。だけど、僕は。
発砲音がした。
ぐらりと何かに引き寄せられて、僕は地面に叩きつけられる。空に落ちていくような感覚がした。
慌てて起き上がり、痺れた腕をやつらに向ける。足の下には死体があった。僕を押さえ付けていたやつらが崩れていた。
そうだ、僕は銃を持っていたじゃないか。撃ち抜いてから、思い出した。やつらは僕が撃つなんて考えていなかったのかなんなのか、奪われなかったから忘れていた。
僕はしゃくりあげて、やつらに銃口を向けた。彼を離せと言いたかった。だけど、焼けるような喉の痛みと涙が言葉を切断する。
ぐったりと地面に押し付けられた彼は、僕をただ見つめていた。やつらが面白そうに口笛を吹いた。僕を撃つこともなかった。ひそめきあい、顔を見合わせ、冷笑に歪んでいく。
意味が解らなかった。目を擦り、彼を押さえるやつらを威嚇する。そのまま、トリガーを引こうとして、気付いた。
――あと二発だけ、だけど。
彼が、僕に言った。残っているのは、一つだけ。やつらを殺したところで、他にもやつらはいる。二人の逃亡者を、楽に押さえられる人数が。
はっとした。やつらの嘲笑が僕を追い詰めていく。始めの僕の行動には、油断もあったのかもしれない。僕が撃てるわけないと。
しかし、今は。
撃っても、無駄なのだ。やつらは弾数を知っている。僕が足掻こうと、結末は変わらない。予定調和の抗いは、喜劇にしかならないのだろう。僕の行動を見守るように笑っているのだ。
やつらを殺しても、また別のやつらが僕らに襲い掛かる。
そうして、どうなる?
僕はまた地下室に戻る。しかし、彼は。彼はどうなるのか。
「手間を取らせたね、御曹司。……ボスから伝言だ。あのガキと同じ、見せしめとなるってさ」
迷う僕の思考を後押しするように、やつらの一人が言った。手間、ボス、御曹司、見せしめ。その意味は解らなくても、伝言を受け取ってしまう。
このままでは君と同じ目に合うだろう。やつらは僕にそう言っていた。
彼が、あの地下室に入る。このままでは、あの奈落を味わう。殺されることもなく、痛むために生き続ける。
「……下がれ、離れろ」
自分の、やつらの思考を拒否するように僕はトリガーに力を込める。しかし、引くことはできない。やつらは悪戯に彼を引き起こし、盾にするように立ち上がらせる。
的は作ってやったぜ。そう言っている。
このまま時が止まればいいのに。何故かそう思った。雨に濡れた路地は、鈍く気温を下げていく。そうだ、このまますべてが凍ってしまえばいいのに。
そうすれば、ずっといっしょにいられるのに。
彼はいったいなんで僕を逃がそうとしたのだろう。そこは聞かなかったから、語られなかったからわからない。だけど、きっとただどこかへ僕を連れ出したかったのだろう。そして、それがこの時間を生み出した。
彼にはもう残酷しかない。
彼の生は地獄につながっている。生きていれば、苦痛になぶられるだけだろう。きっと彼は狂っていく。爪を剥いで、助けられず、身代わりを作り、自己を粉砕され、記憶を断絶される。
そして彼は僕になる。
しかし、彼を、今、この手で殺せば。彼を止めてしまえば。僕は戦慄した。
彼を?
僕が?
やつらはにやにやとこれから行われるショーを嬉々として待っている。僕がどうするか。自殺をするか、殺害するかを眺めている。
僕は彼を見た。それなのに彼は笑う。
「……それは、君のために使いなさい」
瀬戸際なのに、僕だけでも生き延びろと、彼は言っていた。逃げて、どこかで幸せになってくれと僕を見ている。犠牲を覚悟した、悲しいまでの強い意志。
僕は首を振る。二人じゃなければ意味がない。たった一人で逃げて、何をしろというのだろうか。そんなこと、できるはずがない。
それに、もうすべては決まっている。重傷の彼と、脆弱な僕では逃げ切れない。この隙は、この猶予は、やつらが僕か彼に誰かを殺させ、そうして楽しもうとしている。僕の苦悩を、彼の悲しみを、遊びつくそうとしている。
それは彼にも解っていただろう。それでも諦めずに僕だけを想っている。一人を殺し、隙を作り逃げろと祈っている。それをやろうとしている。命が零れているのに。
僕は首を振る。やっぱり、できない。彼を殺すなんてできない。彼は僕に暖かさを与えてくれた。ここではないどこかの存在を教えてくれた。こんな僕にキスをしてくれた。そんな彼を、僕は断ち切ることはできない。
しかし、彼は生き残っても、残虐に殺されていくだけだ。痛めつけられ、精神のすべてを隙間なく切り刻まれる。
僕は迷い、揺れて、ただ雨を受けている。
彼の青い瞳は僕を映していた。彼と過ごした数日間は、夢のようだったと思い返す。僕でも、逃げられると信じてしまったような。そこで僕は、気付いてしまう。今、ここにあるのが僕の現実なんだと。
悪夢を見ていた。一度はそう思った。だがそれは間違いだった。真実は、彼といた時間こそが夢だった。
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