一日目

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 少し痛い、歩けるかは解らない。でも、立ち上がらなくちゃ。  願いと意志を込めると、しっかりと立ち上がれる。大丈夫、走れそうなくらいは回復してる。  彼は息を潜めさせると、僕の手を手の平で強く潰したりして。そして、今度ははっきりと言う。 「逃げるよ、ここから」  ここから逃げる。 ……逃げる?  新種の遊びかもしれないと思った。ここ以外どこか逃げ道があるなんて聞いたことがない。  なんだか解らなくて、意味不明で。  問いたかったけど、頷いた。何か聞いたら、なんで解らないって怒られるのかなって、黙ってしまう。  彼は僕に上着とフードをかぶせて、手を引っ張った。痛いぐらいの力だけど、抵抗はしない。 「いいか、三秒数えたら、走れ。俺についてこい」  言われたまま心の中で三秒数えて。  いち、に――だけど、僕より彼の時間感覚の方が早くて。  だから、一瞬引きずられる形になる。慌てて足を踏して、また涙が溢れる。びくびくと彼を窺う。命令に従わなかった。何かされるか。  しかし、彼はただ走っている。僕と歩幅が違うのにわざと合わせて。  ほっとして集中する。そうしないと転びそうでもある。だから、現状を考えなくてすんだ。  扉の外は灰色の壁と壁で。それと足音で。血の匂いと、酸っぱい香りで。  足が痛かったけど、そんなことは言えない。ついていくしかできなくて走る。  階段を上がり外へ飛び出る。それで、ここは地下室だったって初めて知った。  外は、本当の外はコンクリートと道路がいっぱいだった。むわっと夏の空気が広がった。太陽が痛くて、足にも重さがあった。  でも、彼に従わなくてはならない。命令は地面を蹴る足を迷わせない。  彼は振り向いて、建物と建物の間に滑り込む。彼にくっつくように僕も後に続く。  それから、何かを裂くような音と、空気の震えがした。びくっと、思わず彼にしがみ付く。  壁に背を休めて、彼は僕を両手で締め付けた。足元からやってくる騒めき。ざわざわとした響き。彼からまだ新鮮な血の匂いが、漂ってくる。  さっき鼻についた血液の香りのは彼だったんだと気付いた。それに恐れればいいのか、震えればいいのかは解らない。血に紛れて甘い香りがしたように感じたけど、気のせいだったのかもしれない。  不意に腕から解放される。ゆっくりと、彼が歩きだす。後に続いて、隙間から顔を覗かせる。  息を少し飲んだ。  それは、今さっき僕らが飛び出した建物が焼けていたからだった。そこは硝子が飛び散り、オレンジの炎をあげている。  ふと何が起こっているのかと考えた。建物が爆発した。でも、どうしてだろう。  軽い舌打ちが聞こえた。びくりとすると、彼は僕を地面に叩きつける。  何か気に食わないことをしてしまったのか。ごめんなさいって言いたくて、彼を振り返る。また、僕は息を飲む。  そこに「やつら」がいた。  やつらの一人だった。犬みたいな叫びをあげて、すぐ後ろにいた。  彼はやつらに何かを言う。ふぁあっくゆーとか、きるゆーとか、それに似た英語。腕を振り上げる。そうすると、やつらの髪と頭が弾けた。パイを投げた後みたいに、ぐしゃっと崩れて。頭がなくなったことに気付かないみたいに腕はぐるぅんと回されてから、膝をつき仰向けに倒れる。  それは魔法みたいな刹那だった。彼が銃を撃ったのだ。素早く胸に銃をしまって僕を振り返る。その顔は緊張して、ぎこちない笑みを作る。  彼はまた僕の手を引いた。驚愕と疑問と、多分怖さがやってくる。どうしてやつらを殺したんだろう。どうして僕を撃たないのだろう。  それからまた走る。やつらの死体を踏み潰すと、まだ柔らかかった。背後から喧騒が追い掛けてくる。路地を駆け、大きな道を走り抜ける。彼は途中から僕を抱き上げていた。ぎゅって絞められて、苦しい。だけど、我慢した。  彼は誰かに言い聞かせるように、大丈夫だとか、もうすぐだと口にしている。  ただ走る。車に乗ったり、すぐ降りたり。そして、ただ駆ける。細い道も大きな道もマンホールの中も建物の中も。声も騒めきも、そのたび遠くなる。  どこに行くのか気になりはする。だけど僕は聞かなかった。それは、どこへ行ったって同じだろうから。彼の息が額にかかる、そこも血の匂いがした。  気づくと空が黒くなっている。知っている光の暗さに安心して、泣くのをやめた。どこか乾いたまま空を見上げた。  しばらくして、彼は足を止め僕を下ろした。はぁはぁと息を切らす。熱の上がった額から、汗が浮き出し落ちていく。  そうして、僕の手を持った。  感情の掴めない顔で頷き、僕の頭を擦る。 「……俺に追い付けると思ってるのかな。相変わらず馬鹿だなぁ」  僕は意図が掴めず、彼を見て視線をそらせた。だけど、手は離れないままで。  彼の肌はとても、熱すぎた。  そのまま彼に手を引かれ、連れていかれる。そして、辿り着いたのは、モーテルの一室だった。  きっと、ここで彼が僕を痛めつけるのだろうと思った。解っていたのに、興ざめな気持ちもする。どうしてだろう。わからない。  テーブルにテレビに大きなベッド。消臭剤の匂いを嗅いで、こっそりと息をついた。  人の体温を無理に追いやろうとした、簡素な部屋だった。大きなベッド、その意味を知りすぎている。
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