街を泳ぐ日

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 国道246号線、青山通り。  だれもいなくなった町に一人、歩道橋の上から道路を見下ろして、煙草をふかしている男がいた。まだ若いのにぼさぼさの蓬髪、口髭、だらしなく胸元の開いたアロハからは、骨が浮きあがるような細身の不健康そうな肌が覗いている。彼は歩道橋の欄干にもたれ掛かり、サンダル履きのつま先をトントンと遊ばせて、じわじわ短くなっていくショートホープをつまみながら、見るともなしに道路を見下ろしていた。こんなくたびれた男が絵になる訳もないが、どこまでも気怠い周囲の空気と溶け込み、自己と自然との曖昧な境界をよしとする姿には、どこか見る者の心をくすぐるものがあった。それは乾いた風――じくじくと痛む隙間に這入り込み、哀しさを少し癒やす替わりに寂しさをおいていく類いの、厄介な予感をはらんだ初秋の風のようだった。  夕方の穏やかな赤光に照らされた街には、誰の姿もない。それもそのはずだ。三日ほども前から、東京には緊急避難命令が発令されている。 「やあどうも。まだアレは海上ですかな」  ぼうっとたたずむ男に、話し掛けてくる者があった。  40代半ば過ぎと見える中年男で、チューリップハットの下には健康で意思に溢れた精悍な顔が笑っている。オレンジ色のツナギを着て、重そうなリュックサックを背負った、旅人のような男だった。  旅人は荷物を降ろして大きく体を伸ばした。もうどれくらいの間背負っていたのだろうか、すっかり固くなった体をほぐして、疲れた体を男の横の欄干に預けた。相変わらず楽しそうに、人懐っこい笑顔は浮かべたまま、ポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出す。 「どのくらい、ここに居るんです? いつから? どうして?」  ポンポンと体中を叩きながら、旅人は矢継ぎ早に質問をした。どうでもいいことを、たくさん。 「あんた、質問が多すぎる」 「こりゃ失礼、性分でね。これでも以前はブン屋をやっていたんだ、その頃のクセかなぁ。気になったことは何でも訊いてみるのが、習慣になってるんだ。ああところで――君、火、持ってないかな?」  旅人はライターを探すのを諦めて、両手を挙げて見せた。シワの寄ったマイルドセブンを一本咥えて、にやっと口角を上げた表情はやけに馴れ馴れしく、それでいて他人が本当に怒る一線の中で留まっている。希有な才能と言えた。  男は軽く息を吐くと、ジーンズの尻ポケットからブックマッチを取り出して渡した。旅人の方を見もせずに、この喧しい隣人が黙ってくれるならということで、差し出す。 「ブン屋ってのはみんな、あんたみたいに五月蝿いのか」 「いやあ、僕が知ってる限りじゃあ、僕だけだね。気を悪くしちゃったかな。よく言われるんだ、少し喋りすぎるってね」  少し所じゃあないだろう。男は思ったが、一つ言うとまた十にも二十にもなって返って来そうなので、あえて黙った。 「きいてもいいかな?」 「どうぞ」 「さっきも言ったけど、いつからここに居るんだい? もうみんな逃げてしまったっていうのに、わざわざ残っているのは、なぜ?」  男は残っていたショートホープを一口吸って、折り曲げて指ではじき飛ばした。火の残る煙草は、薄暗くなりつつある空気に赤い微かな輝線を描いて、落ちていった。 「俺はずっとここに居るんだ」 「ずっと?」 「違う世界に来てしまったみたいだろう? この下を、本当なら、今もたくさんの人が歩いていたんだ。車に乗ってたかもしれない。とにかく、たくさんの人が集まって、街を作っていた」  歩いているのは本当に色々な人々だ。スーツを着たOL風の若い女性もいる、小型犬を連れて散歩している、近所の主婦もいる。仕事帰りの男達が、これから繁華街へでも繰り出そうかとしているのだろう、二、三人で集まって足早に歩いている。  これがみんな今はいない。  暮れなずむ空とそれに染まる街には、空虚と時間だけが広がり、ただ一人それを見ている男は、まるで別世界にでもいるかのようで。人がいないということはその空間の意思が薄まるということでもある。街はただの建物の集まりで、道路はただのアスファルト舗装の地面だ。使うモノがいなければ、それは本来の意味に還る。 「こう、海にでも潜った時みたいに、粘り着く水や空気以外に、感じられるのは自分の意思だけなんだ」 「ほお、そういうことですか。水の中みたいにね。そういえば昔、そんな名前の歌がありましたよね。でも、知ってます? もうすぐそこまで来てるみたいですよ、怪獣」  旅人はリュックの中から今日付の新聞をとりだして見せた。一面の見出しは三日前から変わらず、突如太平洋に出現した正体不明の怪獣の話題。それが今日の未明には東京湾に入ったことを知らせるものだった。 「こんな所で黄昏れてると、たべられちゃいますよー」 「…………」 「僕はね、思うんですよ。避けられる悲劇なら、避けるべきだってね。大きなものに抗えるのはそういう力と資格をもった人のことで、まあ時にはそういう無茶な挑戦も大事ですし、そういうのに燃えるってのも分かるんですけどね。でもどうでしょう、ここでただ黙って空っぽの街を眺めながら、怪獣の食べやすい高さで口の中に消えるのを待つだけじゃあ、意味ないでしょう?」 「……意味?」 「生きてる意味、ですよ」  言いたいだけ言って、旅人はもう行くのかも知れない。リュックの中をごそごそと探り、何かを取り出そうとしながら、こともなげにそんなことを言う。 「それともなんですかね、君は怪獣が来ても平気な根拠とか、あるんですか。なにか知ってるとか? 怪獣のことを?」  男の脳裏に浮かんだのは台所に立つ女性の後ろ姿だった。古くて狭いアパートの中で、それでも小さな幸せを生きていた時間。男に残された最後の、人らしい感情のよすが。妻を亡くし絶望に囚われるギリギリの所で踏みとどまって、ゆったりした止まった時間の街で、心が泣いていた男には、開き直りに転じるまでの憂鬱に浸ることが必要だったから、ここへきた。それだけだ。 「怪獣なんて知ったこっちゃない」  彼女がいないのに、何も変わらず動いている世界が憎く思った時もあった。彼女にとっての自分が、自分にとっての彼女ほど大切だったのかはもう確かめる術がない。そんな簡単なことが出来ない世の中が要らないと思ったこともあった。  でも今、男はこうして水の中のような風景を見ながら思う。思考も感情も、たゆたう水に洗われて、清々しく諦めきっている。いまここで死んだとしても、自分はなにも感じないだろう。 「ここでこうしている以外、どうでもいい奴だっているだろう。探せば、いくらでも、俺みたいな人間はいて、やっぱりあんたが逃げようって言ったところで、動きはしないさ」  ふと、男は思った。この旅人は、一体なぜ、こんなことをしているのだろうか。危険な街に残った連中を訪ねてまわっているのか。だとしたら、自分の危険を顧みずに、自殺志願者のような連中の肩を叩いて回るのには、どんな必要があるというんだ。  男はもう一本、ショートホープを取り出して、旅人に尋ねた。 「あんたはどうして、こんな風にまだ街を歩いてまわってるんだ?」  火を付けようとして、まだブックマッチを返してもらっていないことに気がついた。旅人のほうへと手を差し出して、火をくれ、という意味の視線を送る。と、男はその時はじめて、旅人の両の眼を正面から見つめたことに気付いた。気付いてすぐに悟った。こんな奴と話していたなんて、俺もずいぶんと恐いもの知らずだったんだな、と。  旅人の眼には、優しい街の停滞など写ってはいなかった。  そこには、ただ、ただ、意思があった。人の意思が。 「僕ね、思うんですよ。この世に怪獣がいるなんて、ほんの一週間前にはいったい何人の人が、確信できました? それからそのなかで何人が、クレイジーのそしりを受けずに確信を口にできました? だからね、こういう考えもありなんじゃないかと思って、僕、上司に言ったんですよ。三日前にね。そしたら彼、なんて言ったと思います。こうですよ「こんな大変な状況で、なにバカなこと言ってるんだお前は!」って。こんな大変な状況って、その状況って昨日のあなたに言ったら信じましたかってことですよねぇ」  暗い闇の中でも生きると決めたものには、その瞳の中に光が宿る。それだけ生きるという本能と意思が合わさったときの輝きはまばゆい。目が眩み、あるいはその中では自分以外に生きられないこともあるほどに、強い。 「いるんじゃないかなぁ、ヒーロー。怪獣がいるんなら、きっといると思うんですよね。それも普通じゃない所に。だってヒーローも怪獣も、普通じゃないでしょう?」  襲われそうな街に残っているのは、どのくらい普通じゃないだろうか。 「だからお願いします。君、ちょっと振り切ってみせて下さいよ」  旅人がリュックから取り出したのは、拳銃だった。  それは安全装置が外され、弾も込められ、銃口はまっすぐに、男の眉間に突きつけられていた。 「こういう場合、中途半端じゃあ、駄目ですからね」  引き金がひかれ、撃鉄がはねた。  銃声は夕暮れの終わる空に響き、羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び立った。止まっていた時間が、動き出したかのようであった。  ざらざらした声が、興奮を抑えられないといった様子で、状況を伝えてくる。海上、それもヘリの中からの生の声は、聞き取りづらいことも含めて、現場の逼迫をよくよく現していた。 「先ほど、突然現れました――巨大な、巨大な、アレはなんだ! 怪獣が、もう一体――いえ、アレは、人、人です! 二十メートルはありますでしょうか、巨大な人が、突如海上に現れました。巨人は海の上に立って怪獣に――ああっ、今、巨人が怪獣のしっぽのようなものを掴んで持ち上げました! 海面に激しく叩きつけています! 一回、二回、怪獣が蠢いています! 聞こえますでしょうか、この悲鳴が――」  ガガガと雑音が鳴り出し、ラジオからは音声が途絶えてしまった。  紺碧に瞬く星々の合間に、白いぼやっとした煙が、所々流れ出していた。 「いやぁ、よかったなぁ。ヒーロー、やっぱりいたよ」  旅人はアスファルトに横たえた体を小刻みに震わせて、笑った。笑うと、その度に、彼の体からは血が飛び散った。腕があらぬ方向に曲がっている。内蔵も幾つも潰れている。脇腹は破れて、飛び出した腸はもう痛くも痒くもないのだが、そこから段々と体温が無くなっていくのが感じられた。  荷物と一緒に地面に叩きつけられたのは幸運だった。旅人は鈍くなった腕を伸ばしてラジオのスイッチを切り、地面で煙草をもみ消した。そして胸ポケットの最後に残った煙草を咥えた所で気がついた。 「あーあ、しまった。返し忘れちゃったよ、マッチ……」  人のいなくなった街はとても暗く、ポッと一瞬灯が灯った他は、その晩はもう二度と、動くものはなかった。  小夜すがら戦い続けたヒーローは、夜明けとほぼ同時に怪獣を殺した。  なるようになったわけじゃない。狂っていたのかもしれない。それでもヒーローは守り、怪獣は壊す。常識を疑い得た誰かのことは、だれが語るのだろう。
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