音楽室でトランペット……

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音楽室でトランペット……

 音楽室でトランペットを吹いている毬輪さんはよく見掛けるけど、それ以外の場所で出くわす事は滅多にない。  でも、今日の昼休み、階段のところで擦れ違った。あ、毬輪さんだ、あ~、もっとよく見ておけば良かった。と、思ったら、彼女がうっかり手を滑らせたのか、持っていた楽譜が床に散らばった。  周りにいた人達、わたしもその一人なんだけど、楽譜を拾い集めて毬輪さんに手渡した。 「ありがと」  と、毬輪さんが言う。別にわたしだけに言った訳じゃないんだけど、わたし、少しぼーっとなっちゃったよ。  高等部の男子が、毬輪さん、音楽の事ばっかり考えてちゃいけないよ、昼休みは飯を食うための時間だって事を忘れちゃ駄目だからね、と言うと、毬輪先輩、あははは、と笑いながら何処かへ行ってしまった。  わたし、ほんとにささやかな事なんだけれど、毬輪さんのお役に立てたかな、なんて思ったの。誰かが落とし物をしたら拾ってあげるのは当たり前なんだけど。そんな事は分かってるんだけど……。  なーんて事を考えてぼーっとしてたから、 「気をつけろ!」  階段のところで人にぶつかってしまった。 「す、すいません」 「何処見て歩いてんだよ!」  ものすごくおっきくて、怖そうな顔をした男の人から睨まれた。その人の持っていたミネラル・ウォーターが少しこぼれたみたい。  と、そこへ。 「おいおい、荒熊、そんなに怒っていいのか」  あれ、何処から来たのか問題児さんだ。 「この子は門野ミカ様と同じクラスだぞ。門野様の怒りを買う様な事をしていいのかな」 「う、うるせい、お前には関係ないだろ」  今迄怒っていた怖そうな人は、顔を真っ赤にして、ぷい、と何処かへ行ってしまった。え、門野ミカ様って、そんなに御利益があるの? 門野ミカって一体何者?  わたしは前々からの疑問を問題児さんにぶつけてみた。 「先輩、どうして自分の後輩を『門野様』とか『ミカ様』って呼ぶんですか?」 「ああ、それ。さっきのやつさ、荒熊寅男っていうんだけど、去年迄はやたらとひとの事をいじめてたんだよな。ひでえ乱暴者でさ。で、門野の親友の弓子っていうのをいじめた時に、門野がものすごーく怒ってさ。『ユミちゃんをいじめるな!』と言って荒熊のやつをぶん殴った訳よ。  門野の放った強烈なアッパーカットがあいつの顎に決まって、あいつは見事にすっ飛んだね。いやあ、見せたかったよ。  たださ、その時、犬を散歩に連れてたお爺さんがいてね。犬にうんちをさせてたんだね。そこへ丁度荒熊がすっ飛んで来たから一人と一匹は驚いた。  お爺さんは何とかよけたし、犬も咄嗟に身をかわしたんだけど、うんちは人間をよけられないじゃん。だからうんちは荒熊の背中でびしゃっと潰されちゃった訳。それで荒熊は犬に吠えられながら、うんちを背中にくっつけたまま、泣く泣く家へ帰って行ったんだよ」 「それ、何時の事ですか」 「去年の秋だったかな」 「じゃあ、あの人、小学生の女の子にノックアウトされたって事?」 「そうそう。だからそれ以来、あいつは全然睨みが利かなくなっちまってさ。なんせ、小学生にぶっ飛ばされてうんちべったりだからね。それでいじめっこの方は廃業せざるをえないって事になったね。そして門野の方はいじめっこキラーとして名を馳せたという訳。だからうちの学園の生徒はみんな、門野に文机学園に入学するよう、説得したんだよね。初めは別の中学に行くつもりだったらしいけど」 「へえ、そんな事があったんですか。それでいじめっこをやっつけたんで、『門野様』、『ミカ様』ですか」 「そういう事。だから君も、門野様と喧嘩をするんなら、側に犬のうんちがない場所を選んだ方がいいね」 「いや、そもそも喧嘩しませんから」 「あ、そうそう。話は変わるけど、君、港区に住んでるんだったよね。あたし、あっちの方の地理には詳しくなくてさ」 「港区に来る用事があるとか?」 「この間、ウラジーミルが隣の国に戦争を仕掛けただろ。だから、抗議活動でもやろうかと」  わたし、とってもとっても嫌な予感がするんですけど。 「抗議活動ってどんな事を……」 「プラカードを持って、あの国の大使館へ行くね。確か港区の方にあったよね。プラカードに書く言葉は、『今すぐ戦争をやめないと、大使館のトイレの水が流れないようにするぞ!』っていうの、どう?」  先輩、それはかえって国際紛争という名の車を加速させる事になるのでは。  この人には港区の地理は教えない方が良さそうです。
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