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「音楽学校の生徒だったそうです。詳しい事情はわかりませんが放校になったとか」
深水が説明すると、鄭は頷いた。
「それは気の毒ですね」
モダンづくめの華やかな店内とは対照的な、物静かな常識人風で色を売る店の主人にしては品がある。
「ここはどこですか」
もらった湯冷しが五臓六腑に染み渡り、藍子はやっと声が出せるようになった。
「日本初の、オペラの聴ける西洋式茶店『歌話茶房(かわさぼう)』。自分で言うのもなんですが、この界隈じゃなかなかの名物店ですよ」
「オペラの聴ける……?」
「ええ。音楽学校の生徒さんもよく来ます。男子生徒が主ですが、たまには女性も連れられて……噂に聞いたことはない?」
鄭先生は笑うと皺がよくできる質のようで、深いバリトンの声は自然に人の心を落ち着かせる。藍子は首を横に振った。
「そうですか。それは宣伝不足でしたね」
それは店の宣伝云々よりも入学以来の貧乏生活と、下宿と学校の往復で友人も作らず、ピアノに向き合うだけの日々のせいだ。
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