第一場 月光奏鳴曲

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 下宿は父親の伝手で頼み込んで置いてもらっていた遠縁の家で、休みの日は子守とその家の商売の手伝いをするのが条件だった。そんな家に高級舶来品のピアノなど置いてあるはずもなく、休みの日も暇を見つけると、学校の独習室や恩師の家にピアノを借りに通っていたのである。 「どれ、何か食べる物はあるかな」  鄭先生はカウンター奥の厨房に入ると手慣れた手つきで何やら切ったり炒めたりし始めたーードアに仕切られその様子は見えないが音でわかる。  たちまち何とも言えない魅惑的な香りが店じゅうに広がり、空腹がさらに頂点に達した頃、藍子の目の前ーー真っ白なテーブルクロスの上になんとあの空高く遙か遠くに輝いていた十六夜月が差し出された。  藍子は歓喜のあまり黄色い声をあげた。  何の料理かはわからないがこの見事な黄金色の宝物を、添えられた匙で無惨に崩して食すことが一瞬ためらわれた。が、食欲と生存本能が勝った。  一口含むや、人生で初めての美味しさであるーーそして銀の匙の先から溢れる滋味豊かな混ぜ飯の朱、添え菜の緑、菓子のように甘塩っぱい玉子の黄金ーーなんという鮮やかな色彩、なんという美しい調和と協奏であろう。
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