第一場 月光奏鳴曲

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ーー音楽で身を立てたいと、女だからと反対する周囲を押し切り、今までよく頑張った。  藍子は胸元に抱えた粗末な風呂敷包みをーーではなく、その上に置かれたピアノ譜をぎゅっと抱き直した。 ーーですが夢や霞を食べては生きてゆけぬこの生身、矢尽き刀折れついにここまでのようです。敬愛するルートヴィヒ・フォン・ベートーベン先生…… ーー満員の聴衆の前で、先生のこの曲を弾き喝采を浴びたかった……ただその夢が叶わないことだけが心残りです。  両目から溢れた涙がそのままお下げ髪のこめかみや耳の中に伝い落ちた。  これまで失意と不安で何度となく見上げた夜空だが、両面切って月と向き合うのは初めてだーー一点の憂いも無く満ち足りた満月でも怜悧に取り澄ました爪先のような月でもない、ふっくらとした黄色い十六夜月。 ーーベートーヴェン先生が曲にこの描いたのはどのような月であったか。  たった独りの寂しさも夢破れた無念も、あの月が舞台照明で、とりまく星々は満員の観客たちーーと想像してみると不思議と薄らいでいく。 ーー天に召され、あの方の御霊のお側に行けるのならそれも悪くない。いつか御許でこの曲を弾くのだ……
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