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第6話:蛞蝓より粘着質な貴女
山の中。まだ夏本番ではないとはいえ、天頂に昇る太陽は力強い。
強い日差しが山中の斜面を焦がしている。そこら中に生い茂った草木が地面にまだら模様の影を作り、暴力的な紫外線の到達面積を減らす自然の日傘になっていた。
太陽によって育まれた草木が太陽を遮る防波堤になるというのはなんだか本末転倒で皮肉だな、と白花はジュリエットの小脇に抱えられながら考えていた。
「ちょ、ちょっと待つのです……」
「あと少しだけ走りましょう。僅かな優位ですが高所を取るべきです」
白花たち四人は山の中を走っていた。
夏の日差しの下、舗装されていないけもの道を十数分も走り続けるのは流石に堪える。いや、実際のところ、息も絶え絶えになっているのは遊希一人しかいないのだが。
ジュリエットは両脇に白花と紫を抱えて走り、遊希がその後ろを付いてきているからだ。動きにくそうなメイド服で二人を持ち上げ、汗一つかかず全速力で進むジュリエットのスペックには未だ底が見えない。
遊希だって小学生にしては相当な運動神経のはずだ。少なくとも白花よりは何倍も体力があるのだが、今はジュリエットに付いていくだけで精一杯のようだった。
「もう、もう無理なのです、おえー……」
「仕方ありません。このあたりで一旦休みましょう」
四人は深い茂みの中に飛び込んだ。中でしゃがむと、頭の上まで伸びる高い草が姿を完全に隠してくれる。
更に、草々の間を縫ってただちに蜘蛛の巣が形成される。無数の草から出発した数本の糸が空中で合流すると同時に、その間を架橋して糸が次々に伸ばされていく。
蜘蛛の巣を作る糸の幾何学的な振る舞いに一瞬だけ見とれるが、遠くから響く山びこのような野太い声が今の危機的状況を思い出させる。
「何なのあいつら、マトリックスじゃないんだからさ!」
ホテルの朝食バイキングを堪能してチェックアウトを済ませたのが二時間前のことだ。
サークロとかいう人がいる研究所を目指し、小田原線で神奈川の南方まで移動して山の中に入ったところで、いきなりサングラスとスーツの男の集団に襲われた。とにかく人数が多く、優に二十人を超える男たちが土煙を捲き上げて追いかけてくるのはもはやスラップスティック・コメディじみていた。
今はなんとか逃げ続けているものの、草木をかき分ける音と連携を取る声が全方位から満遍なく聞こえてきている。追いかけっこに山全体がざわめいているようだ。
「彼らは桜紋組、ジャパニーズヤクザが原型のアンダーグラウンド組織の一つなのです。それなりの歴史と知名度を持つ正統な組織であり、構成員にロットが多いことが大きな特徴、主な武装は刀や銃器や爆発物などの古典的な装備です。個々の戦闘力は大したことがありませんが、とにかく組織力が脅威なのです。最近は思想よりもビジネスで動く側面の方が強いので、白花お姉さんの心臓を奪取したのち高値で売り払うことが目的だと思われます」
遊希がタブレットをスクロールしながら情報を読み上げる。少し休憩しただけでもう呼吸が整っているあたり、腐っても武闘派というところか。
またしても男の雄叫びが山中にこだまして白花は飛び上がる。いきなり撃たれたりいきなり拉致されたりいきなり切られたりするなら諦めも付くが、現在進行形で追われて逃げているというのは凄く落ち着かない。いつどこから敵が現れるのかわからないのはかなりのストレスだ。
黒華に殺害予告をされたときは全然気にならなかったのに、なまじ見知らぬ敵が迫っているとなると、途端に人並みの不安感が湧いてくる。
「これ、遊希ちゃんの蜘蛛の巣でどうにかならないの!」
「一時的な足止めはできますが、相手がこれだけ多いと数の暴力で突破されてしまうのです」
一般人の白花に比べれば、流石に遊希は落ち着いて状況を分析する。紫などジュリエットの腕の中でいつものように寝息を立てていた。
「そもそも蜘蛛の巣は縄張りに固定する家であって、大量にバラ撒いたり移動中に装備するようなアイテムではないのです。防御手段として傘は一応持っていますが、動き回りながら四人を守れるほどの防衛力はありません」
遊希は手に持った傘を振ってみせた。道中で拾ったビニール傘からビニールを剥ぎ取って骨だけにしたものだ。
ビニールのあった部分には今は蜘蛛の巣がかかっている。雨の代わりに銃弾を防ぐ即席の装備品だ。右手に金属バット、左手に傘。遊希にとってはさながら剣と盾か。
「どっかに陣取って蜘蛛の巣張って籠城するのは?」
「駄目なのです。攻撃を防げても囲まれたら結局動けなくなるので、こちらが根を上げるまで粘られる可能性が高いからです。僕とジュリエットで攻守を分担するのはどうですか?」
「難しいところで御座います。確かに、わたくしがその気になれば、追っ手を全員殺すくらいはできます。ただ、これだけ大人数が相手となると正面から戦うのは難しく、地形を利用してヒットアンドアウェイを掛け続ける長期戦にならざるを得ません」
「それには何分かかるのですか?」
「平均して一人二分弱として、余裕を持って見積もると一時間というところです」
「うーむ、その間に蜘蛛の巣ごと連れ去られる危険があるのです。これだけ人数を揃えているなら道具も色々準備しているでしょうし、例えば蜘蛛の巣が張っている木ごと伐採してしまってトラックに積み込めば人質として拉致することは可能なのです」
そのとき、上方から飛来した小さな何かが蜘蛛の巣に引っかかった。
即座にジュリエットが動き、それを素手で掴むと、ただちに遠くへと放り返す。ノーモーションで投げたにも関わらず、まるで砲弾を打ち出したかのような勢いで空高く舞い上がった。投擲物から噴き出した煙が大気中に軌跡を描く。
「催涙弾か発煙弾の類なのです。派手に銃撃や爆撃をかけるより、非殺傷武器で無力化する方を選んだのでしょう、心臓を壊してしまっては本末転倒ですからね」
「それより、今の煙で潜伏場所が割れてしまいました。恐らく、可視性の高い煙を使うことで炙り出す狙いがあるのでしょう。ただちに場所を移すべきで御座います」
ジュリエットの言葉通り、追加で三個の発煙弾が次々に飛んできた。
周囲に張り巡らされた蜘蛛の巣が弾自体はキャッチするものの、そこから漏れ出してくる煙は防げない。ジュリエットは再び白花と紫をまとめて抱えると茂みから飛び出した。
「少々揺れますので御注意下さいませ」
その言葉通り、さっきまでよりも激しい動きで移動を再開する。
飛んでくる発煙弾を空中で回転してオーバーヘッドで蹴り返し、地面だけではなく木の幹までも蹴り付けて立体的に飛び回る。そのたびに上下が逆になったり遠心力で引っ張られたりする。
乗り物酔いには強い白花でも軽い吐き気を感じる。紫は相変わらず目を閉じたままだ。ちらりと後ろを見ると、遊希も何とかジュリエットが切り拓いた道に追随してきていた。
煙を避けて逃げ続けていると、じきに開けた広場に飛び出した。
ここだけ木が綺麗に伐採され、山の中にぽっかりと空いた穴のようになっている。しかも前方は崖、これ以上先には進めない。
「うまく追い出されましたね。思ったよりも優秀なブレインがいるようです」
「うげ、平坦な空き地では蜘蛛の巣が張れないのですが」
待っていたとばかりに横から現れたスーツの集団が前方を塞いだ。その数はざっと三十人といったところだろうか。彼らの動きは一糸の乱れなく統率が取れており、マスゲームのような美しさすらあった。
後ろを振り返るが、もはや煙ばかりで森の中は全く見えない。前には人の壁と崖、後ろには煙。万事休すだ。
「久しいな、ジュリエット」
大柄な男たちの壁をかき分けて着物の女性が現れる。
髪には簪、手には扇子。頬の白粉に対して口紅の赤が強烈に鮮やかで、何重にもなった付け睫毛がうるさい。
ヤクザ組織なら極道の妻的なものかと一瞬思ったが、どちらかと言うと芸者の方が近いような気もする。過装飾の女性はパイプ煙草をふかし、余裕の表情で四人を見据えた。
「どちら様でしょうか? 大変申し訳ありませんが、わたくしが会って記憶に残すのは、もう一度会うまで生きていられそうな方だけで御座いますので」
「安い挑発はやめよ。お主ほど有能な殺し屋が構成員を覚えていないほどの弱小組織に成り下がった覚えはないぞ」
「ああ、思い出しました。ちょうどわたくしがオーストラリアから帰ってきた頃に……」
ジュリエットが喋りながらスカートからスマートフォンを後ろ手で取り出した。
背後の白花たちにだけ見えるように素早く文字を打ち込む。会話をしながらの後ろ手のブラインドタッチであるにも関わらず、僅か数秒で指示文が完成した。
『三十秒後、遊希様は傘を使って私と入れるシェルターを作ってください。白花様は紫様を背負って絶対に離れないように』
それを読んだ遊希がジュリエットの手の平に小さな蜘蛛の巣を張る。
その感触を受け、ジュリエットは電話画面を開いてダイヤルを開始した。やはり物凄いスピードで11桁の番号が入力される。
「……それで、わたくしが徳島ラーメンを食べている席で隣に座ったのが貴女でしたね」
「全然違うわ! もう覚えていなくても構わん、妾の要求は心臓だけだ。お主らをこの場で射殺したいのは山々だが、それで心臓が壊れてはいかんのでな。大人しく渡せば……」
「今です!」
叫んだジュリエットがその場でしゃがむ。そして背負った紫を白花に向かって放り投げる。
遊希が傘の残骸を空に向けて大きく広げた。既に蜘蛛の巣が張っている傘の骨から、更に糸が地面に向けて伸びていく。ジュリエットと遊希を囲んで糸が何度も回転し、二人を囲む繭のような蜘蛛の巣の網が作られる。
白花もジュリエットの指示に従って急いで紫を背中に背負った。
相変わらず紫は羽のように軽く、腕力のない白花でも簡単に持ち上げられてしまう。背中にくっ付けてもほとんど重さを感じず、風船でも背負っているかのようだった。
「……で?」
しかし、明らかに防御用のシェルターを作って何らかの攻撃に備えている遊希に比べ、白花は女の子をおぶっただけで何がしたいのかよくわからない。
一人だけ場違いなことをやっているようでかなり恥ずかしい。芸者っぽい女性も怪訝な顔で白花の方を見ていた。
ねえこれからどうするの、と聞く声はバルバルバルという巨大な騒音にかき消された。
その音源は突如前方に現れた巨大なヘリコプターだった。
迷彩柄で何やら大量の装備を機体側面と下部に積んでいる。ヘリコプターは空中でホバリングすると、装備を展開して銃口を前方に向けた。
白花は武器には詳しくないが、蓮の花のような銃口は映画でよく見るガトリング砲だ。一秒間に何発も連射できる、高い殺傷力を持つ武器が六本もこちらを向いている。
積載重量はどうなっているんだと考えた直後、一斉に安全装置が解除される音がした。
「まさか、これ」
発砲開始。
ガトリング砲の掃射が山中の空き地に降り注ぐ。まずは崖際にいた男たちがその餌食となる。
ハチの巣などという生易しいものではなかった。地面も人体も巻き込んで、タチの悪い鎌鼬にえぐり取られるかのように引き裂かれてミンチに変わっていく。
高密度の斉射はもはや弾幕だ。弾が当たると怪我をするというレベルではない。巻き込まれると即死するレーザービームに等しい。
完全なる無差別射撃に、そこにいる全員が蜘蛛の子を散らすように駆け出した。スーツの男たちも、芸者の女性も、もちろん白花もだ。ジュリエットと遊希だけは白い繭のような蜘蛛の巣の中から動かない。逃げまどう人々をガトリング砲が次々に屠っていく。
正直、白花はこうなるような気はしていた。
ジュリエットのダイヤルが援軍を呼ぶものだということはわかる。蜘蛛の巣を張るあたり、無差別攻撃が来るのだろうということも予想できた。
しかし、問題は白花と紫は無防備なままだということだ。
心臓を抜かれても生きていたのだからガトリング砲も大丈夫かもしれないと一瞬考えるが、前方で内側から爆裂したように細切れに吹き飛んでいく男たちを見ると、そんな期待も一緒に吹き飛んでいく。凄まじい運動量の弾丸を撃ち込まれた男たちは食べかけの裂けるチーズのような有様になっていた。
弾幕は白花にも迫ってくる。白花が逃げるスピードよりも圧倒的に速い。地面を破壊して移動する足跡のような軌道がスローモーションで見えた。
恐らくは紫のスキルが守ってくれるのだろう、というか、それより他に生き残る道はないのだが、周りを見ても何か特別なことが起きている気配はない。背中で可愛い寝息を立てている紫を叩き起こしたいのはやまやまだが、背負ったまま絶対に離さないようにと言われているのでそれもできない。
「ふあ~あ」
紫が可愛い声で欠伸をした。
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