第7話:私は悪魔の羽根を踏まない

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「この取引、まだ成立していませんね」   その言葉の主、つまり侵入者は椿だ。  吸血鬼の翼で飛来した椿がテーブルの中央に仁王立ちしている。  白花からは際どい角度でスカートの下が見える。タイツの下に履いている白いレースのパンティが見えてしまっていることを教えてあげるべきか迷う。  しかし、そんなどうでもいいことを口に出すよりは、取引の当事者たちが文句を言う方が優先されるだろうという程度のことは空気の読めない白花にもわかった。  最初に応答したのはジュリエットだった。  その場に座ったまま、片手にティーカップを持ったまま、もう片手は膝に乗せたまま。声色も表情も全く落ち着いていて、何一つ動じていない。 「確かに仰る通り、現在この取引は中断されて宙に浮いております。それで、あなた様はどちら様でしょうか。一昨日サイゼリヤでお会いしたことは覚えておりますが、何か裏の名義があるのであれば名乗って頂けるとスムーズで御座います。もっとも、この質問に意味があるのは、御名前を伺って把握できる程度に名の知れた人間のうちで未だ顔が割れていない方だけですが」 「ブラウに関する書類等管理局職員の椿です。表も裏も無い、良心的な新卒公務員ですよ」 「お答え頂きありがとうございます。要するに、あなた自身は無名のなにがし様ということですね。それで何の御用でしょうか、管理局がこの段階で取引への介入に踏み切るとも思えませんが」 「そうですね。管理局には、あと十秒放っておけば完了する取引を混ぜっ返す理由はありません。管理局は無関係と考えて頂いて結構です。私個人です。私個人がプライベートでこの取引を妨害します」 「それはまた……」  ジュリエットの言葉が苦笑で途切れる。  椿の宣戦布告がよほどおかしかったのか、手で口元を隠してまで控えめに笑うジュリエットの代わりに、もう一人の当事者である黒華も手を挙げた。 「あのー、ちょっといいかな。まあ確かに、今から椿さんがお姉ちゃんの心臓を横取りすれば、慣習上は私の取引相手は椿さんに移るよ。その場合、私の心臓を受け取る権利があるのも椿さんになるね。でも、依頼主が望まない妨害を弾く権利だって普通にあるんだよ。私としてもこの取引はジュリエットさんと終わらせた方が色々都合が良いし、何より私は椿さんとは元々知り合いだからさ、グルになって報酬の提供を拒もうとしてると思われるのが一番マズいっていうのはわかってくれるかなー? そういうわけで、あと五秒でそこから降りないと私が椿さんを殺します」 「五秒もくれるって随分温厚なんですね。アンダーグラウンドって、ここまでされてもまだ話し合いの余地があるほど優しい世界なんですか?」 「はい、五秒!」  黒華の全身が黒煙に包まれる。蚊柱だ。  黒華の肉体が一瞬のうちに数千匹の小虫の大群に変容する。刺されれば即死する疫病キャリアの群れが耳障りな音を立てて宙に舞い上がる。  椿は黒翼を大きく羽ばたかせて突風を起こした。テーブルに残っていた皿まで吹き飛ばす強風が蚊を散らして跳ね返す。  しかし、それによって蚊柱はむしろ空中に拡散した。コーヒーに混ざる牛乳のように教会内に万遍なく広がって、今度は横や斜め下からも椿に迫る。  とにかく数が多くて鬱陶しいのが虫の群れだ。仰いだくらいではとても全てを振り払うことなどできはしない。  椿は上方に大きく飛んで地上から距離を取った。飛行するスピードは蚊よりも吸血鬼の方が圧倒的に早い。  しかし、屋内ではそのアドバンテージも活かせない。高い天井にまで到達した椿に蚊の群れがゆっくりと迫り、更には水平方向にも広がって逃げ道を塞ぐ。  万事休すかと思われたとき、天井から大きな爆発音が轟いた。それから一瞬遅れて、教会の天井に貯金箱でも割るような巨大な罅が走る。天井の崩落が始まるまでは一秒もかからなかった。  ジュリエットが白花の身体を抱えて横に飛ぶ。頭上から瓦礫と大量の雨が降り注いだ。  雨は教会に入ってきたときよりも更に激しくなっている。瓦礫が床に着弾する音ですら、苛烈な雨音に比べればノイズのようなものだ。衝突音なんて一回響けば終わりだが、雨音には切れ目がない。いまや打ち付ける雨がこの空間を支配していた。  飛んでいた蚊は莫大な雨量に押し流され、椿まで辿り着けずに叩き落されていく。テーブルの下に避難して低く停滞した蚊柱が再び黒華の像を結んだ。 「なるほど、考えたねー。蚊なんて所詮は小虫だから、水滴一つが邪魔になるんだ」 「蚊も吸血鬼も似たようなもので御座います。打ち落とせばそれで終わりですので」  ジュリエットが床に落ちた皿を何枚もまとめて掴んだ。そして逆袈裟斬りのように椿目がけて投げ上げる。  蚊とは違い、高速で回転する皿は水滴を弾き飛ばしながら力強く椿に迫る。たかが皿とはいえ、あのジュリエットが本気で投げた皿だ。当たりどころが悪ければ骨くらいは軽く砕けるのだろう。 「ジュスティーヌさん!」  椿が叫ぶ。それと同時に、発砲音が響いて皿が粉々に砕けた。  音の発生源を見ると、料理スペースのあたりでジュスティーヌが拳銃を構えている。横から狙撃されたのだ。  その姿を認めたジュリエットはただちに足を大きく持ち上げ、ジュスティーヌに向けて円卓を前蹴りで吹き飛ばした。相変わらず驚くべき脚力だ。大きな円卓は縦に回転しながら宙を滑空し、盾と目くらましと攻撃手段を同時に作り出す。  ジュリエットを援護するべく、遊希が蜘蛛の巣を張りながら一歩前に踏み出した。  その瞬間、遊希に向けて輝くレーザーが横から撃ち込まれる。遊希は大きく吹き飛ばされ、ほとんど水平に宙を舞う。そのまま壁際に思い切り叩き付けられ、教会全体が僅かに揺れた。  しかし、遊希の身体には既に蛞蝓が這っている。遊希の首元には紫が腕を回して巻き付いていた。あの粘体が二人の身体を薄く包んでいる。遊希はすぐに起き上がってその場で蜘蛛の巣を何重にも張るが、そこにも再び大量のレーザーが叩きこまれた。  レーザーの根本では、レイスが二人に向けて白く光る弓をつがえていた。  レイスが空手で弦を引くと、指先には眩しく光る矢が装填される。その手には何も持っていなかったはずなのに、弦を引き切ったときには右手に三本の矢を挟んでいるのだ。空中から矢を取り出しているようにしか見えない。  レイスは数十本の矢を立て続けに連射する。矢を補充する手間が無い上、彼女が弦を引く動きが速すぎて白花にはほとんど見えない。レーザーのように見えていたのは、あまりにも速い光る矢の列だったのだ。  矢は蜘蛛の巣に絡めとられるが、レイスは撃つ手を緩めない。蜘蛛の巣から外れた矢は教会の壁を貫通し、外の土を深くえぐってようやく止まった。ガトリング砲を超える威力の弾幕が遊希と紫に降り注ぎ続ける。 「なんだなんだ」  目まぐるしく動く状況を前に白花は置いてけぼりだ。楽しいパーティーから一転し、あたり一面が戦闘と破壊で埋め尽くされている。  ジュリエットが柱を駆け上がりながら拳銃を撃つ。レイスが放つ矢が壁に穴を空ける。建物全体が軋んで悲鳴を上げる。崩壊した天井から土砂降りが建物内に流れ込む。  宣戦布告した椿が敵というところまでは良くはないが良いとして、ジュスティーヌとレイスも一緒になってこちらへ攻撃してきているのはどういうことだ。最初から彼女たちは椿の味方で、黒華たちを殺すつもりで集まってきていたのか。  そうだとして、白花はどう動くべきか。  ジュリエットも黒華も遊希も紫も応戦するのに手いっぱいで、いつものように白花に気を回す余裕が無い。そして椿もレイスもジュスティーヌも恐らく白花の手に負える相手ではない。いや、そんな相手などこの世に存在するのかどうかわからないが。  そこまで考えて、この教会にいるはずの人物がまだ一人参戦していないことにようやく気付く。 「サミーは?」  気付いた瞬間、白花の脇腹にダンプカーに撥ねられたような衝撃が走る。  そのままゴロゴロと濡れた床を転がる。五回転してようやく止まるが、呼吸するたびに胸全体に激痛が駆け抜ける。心臓を抜かれたときのことを思い出す、肋骨が折れて肺に刺さっているのかもしれない。  うつ伏せになって床に血を吐く白花の脇腹へ、追撃の爪先蹴りが入る。今度は息ができなくなる。内臓を直接蹴られているようだ。さっきは強烈な回し蹴りを脇腹に食らったのだということを今ようやく理解した。  更に無防備なみぞおちにもう一発。思い切り吐いた。連続して蹴りを立て続けに食らう。吐瀉物を撒き散らしながら、白花は濡れた教会の床を蹴り転がされる。一発一発が重く、どこに当たってもその度に何かが折れたり潰れたりするのがわかる。  遂に教会の外にまでドリブルされ、赤と黄に蛆虫が混じった唾液を草と地面に垂れ流す。背中もお腹もとにかく内部が痛い。皮膚や筋肉ではなく、骨と内臓が悲鳴を上げている。  内出血で赤く染まった白花のお腹にヒールの足が置かれた。激痛で反射的に口が叫ぶ形を作るが、肺が痛くて呻き声すら出ない。しかし、これで蹴りが止んだことにひとまず安堵した。 「ま、不幸だったと思いなさい。あんたに恨みはないけど恩もないから」 「……椿ちゃんと……グルだったの?」  見下ろしているサミーに向けて、何とか言葉を絞り出す。一文字喋るごとに全身が悲鳴を上げる。 「そうね。グルっていうか、昔から友達なのよね。あんたに恩はないけど恨みもないし、冥土の土産にそのくらいは教えてあげる。昔、椿とあたしとレイスで組んでバンドやってたのよ。椿は公務員試験のために途中で抜けたんだけど、そのとき一つ賭けをしたの。あたしとレイスの二人でもっと人気になれるかどうか、二年後にYoutubeに投稿する動画が十万再生されるかどうか。あたしとレイスは無理な方に賭けたけど、椿だけは自信満々にできるって言ってた。結局、あいつが断然正しかったワケね。そんで、賭けの報酬は何でも一つだけお願いを聞くこと。椿はあんたを殺すのに協力してほしいって言ったから、あたしはあんたを殺す。はい説明終わり」  サミーの背中には黒い翼が生えていた。  椿のものに似ているが、もっと骨ばっていて鋭い棘が生えたり太い筋が走ったりしている。どこかキッチュというか、悪い意味で文明的な儀式ばったものに見える。よく見れば色合いも禍々しく、黒だけではなく紫や藍色がグラデーションで混ざっている。 「それ……ステージ衣装……みたいなやつ?」 「ああ、あたし悪魔のブラウなの。レイスの方は天使ね」  サミーの手元に巨大な鎌が回転しながら現れる。レイスの矢と同様、明らかに空中から引き出されている。  この鎌も全体が紫色に淡く発光しており、雨の中では周囲からネオンライトのようにぼんやりと浮き上がって見えた。 「それじゃさよなら。生まれ変わったらあんたをアイドルとしてプロデュースしてもいいわよ」  サミーが大鎌の先端を白花の頭頂部に当てる。  てっきり振り上げるのかと思ったが、そのままぐっと押し込んだ。刃が頭蓋に食い込む。まるでバターを切るように、サミーの鎌は抵抗なく頭蓋を切り裂いていく。  脳に痛覚がないというのは本当だったんだなと思う。だって、痛いのは表面だけだ。  頭頂部から始まる痛みの軌跡をスローモーションで噛み締める。鼻先と後頭部を通って、胸板と脊椎を割り、臍と腰を砕き、子宮と肛門まで走る。  せめて立っていれば亡骸が崩れ落ちたものを、最初から倒れていたばかりに地味な絵面。この中途半端さは私らしい。  白花の身体は真っ二つに切られた。左右対称、鏡写しのように。
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