2人が本棚に入れています
本棚に追加
「お姉ちゃん、おはようございます……」
椿が玄関を閉めた直後、タイミング良く黒華の幻聴が再開した。椿が帰るまで眠っていてくれて本当に良かった。
呼びかけの反復が再開する前に、急いでメモに書いてある電話番号をダイヤルする。黒華は一コールで電話に出た。
「はいもしもし、黒華です」
その声は二重にダブって聞こえる。一つは受話器から、もう一つは頭の中からだ。
受話器からの声の方が少しタイミングが遅いので、微妙にディレイがかかってエコーのように重なって聞こえる。しかも幻聴の方は最初から僅かに反響しているため、エコーにエコーが被って頭がおかしくなりそうだ。
しかし、これで確信できた。これは精神病ではなくテレパシーの類だ。
黒華の発声と黒華の幻聴はリンクしている。受話器の方が遅いのは、電話回線の方がテレパシー回線よりも遅延が大きいからだろう。
「白花です。あの、さっきから私の頭の中に直接話しかけてるよね? まずこれどうにかしてくれない?」
「ああ、お姉ちゃん! やっぱ生きてたんだね。オッケー、今切るよ。はい、ダイジョブ? 今どこで何してる?」
確かに幻聴が切れた。聞こえる声が受話器からの一つだけに絞られる。
「自宅で目が覚めて朝食食べたところ。昨日から何があったの? さっきまでの幻聴は何?」
「その辺話すと長くなるし、電話口より口頭の方がやりやすいからとりあえず合流しよーか。こっちは皆で座間のサークロさんとこいるんだけど」
「ええ、地味に遠い」
また二時間近くかけて神奈川の山中まで向かうのは気が重い。それに白花が一人でタラタラ歩いていたらまた桜紋組とやらに襲われるのではないだろうか。派手に構成員を銃殺したのは、報復される理由としては十分過ぎる。
「いや、今のお姉ちゃんなら電車に乗る必要ないかもね。ちょうどいいタイミングだし、試してみてもいいね」
「何を?」
「ワープだよ。コンクリ井戸から家に飛んだのと同じ要領で、サークロさんとこにも飛べるかもってこと。正確に言うとワープしてるんじゃなくて最初からどっちにもいるだけなんだけど、その辺の詳しいとこは会ってからね。私が手取り足取り教えてあげるから一緒にやってみよ」
「いいよ。先輩風吹かせてる黒華も久しぶりだね」
「そりゃま、お姉ちゃんが蛆の群れになるずっと前から私は蚊の群れだったからね。じゃ、まずはさっきまでいた暗闇と蛆の世界に戻ろっか」
「あ、やっぱりあれって夢じゃなかったんだ。こう、集合的無意識とか、精神世界的なやつ?」
「そんなファンタジーじゃなくてリアルで実在する世界だよ。今こーやって私と喋ってるのが人間の世界だとすれば、さっきまでワチャワチャしてたのが蛆虫の世界なんだ。ほら、生物によって見えてる世界は違うみたいな話、聞いたことない?」
「それって……蛇には人間には見えない赤外線が見えてるみたいな話?」
「そーそー。見えてるものが違うってことは、世界に何があって何がないかっていう根本設定から違うってこと。人間も蛇も蚯蚓も螻蛄も水黽も、それぞれの種にそれぞれの主観的な世界があって、どれが唯一の正しい世界ってわけでもないんだよねー。人間を含めたそれぞれの種に固有の世界、ユクスキュルが言うところの環世界ってやつだよ。で、さっきまでお姉ちゃんがいたのは蛆の環世界。蛆になったお姉ちゃんは蛆の世界に足を踏み入れたってワケだ」
「つまり、蛆の感覚で作られた世界ってことかな」
「んー、まー、そーなんだけど、蛆の細かい生態は本質じゃないよ。最大のキモは個体じゃなくて群体の環世界、つまり複数の肉体を同時に持ってる生命の世界ってことなんだ。心当たりあるでしょ、サミーにバラバラにされたときに身体の個数なんていくつでもいいってことがわかったはずだよ。ま、細かいことは会ってからね。とりあえず今から電話切ってテレパシーで話しかけるから私の言う通りに動いてね」
「でも、テレパシーだとこっちからの声は聞こえないんでしょ?」
「うーん、完全に聞こえないこともないみたいだけど、そっちからだと立ってるアンテナは一本って感じ。とはいえ、蛆虫の環世界では他にやりようがないんだよね、人間のための電話は人間の環世界でしか使えないからさ。それじゃ一旦切るよ……もしもし、お姉ちゃん? こちら黒華です」
電話が切れ、幻聴めいたテレパシーの方が再開する。
本当に黒華が喋っているとわかれば、何が何だかわからなかったさっきまでよりは安心感がある。それに、周囲の状況によらず絶対に聞き逃すことがないので連絡手段としては優れていると言えなくもない。
「それじゃ、まずはなるべくたくさん蛆のいる場所に横になってください」
いきなり結構重めの指示が来た。
この部屋で一番蛆虫がいるのはビニール袋を積み上げたゴミ山だ。仕方なく、さっきと同じようにゴミ山に仰向けに寝っ転がった。蛆が身体を這い始めるくすぐったさを我慢して次の指示が来るのを待つ。
「目を閉じて、なるべくゆっくり呼吸してください。十秒かけて吸って十秒かけて吐きましょう。はい、吸ってー…………吐いてー…………吸ってー…………吐いてー…………」
入眠用CDじみた指示に従い、言う通りに実行する。三分くらい吸って吐いてを繰り返すと、だんだん感覚が鈍っていくのがわかる。
「もうこのくらいで入れると思うんだけど。私はもう入ったよ。今見えてる暗闇は瞼の裏じゃなくてさっきまでいた場所のはず。目を凝らすと蛆虫が見えない?」
確かに目覚めるまでと同じ状態だ。鈍く光っている蛆がたくさんいて、空中には蚊も一匹飛んでいる。どうやら蛆虫の環世界とやらは思ったより簡単に入れる場所らしい。
目の前にいる蚊から黒華の声がした。
「よし、それじゃー案内するから着いてきてね。着いてくるとはいっても、そのまま這って移動するんじゃないよ。お姉ちゃんは蛆の群体なんだから、そこにいるどの蛆もお姉ちゃんなんだ。お姉ちゃんはどの蛆にもなれる。薄く広がった自我のウェイトを変えるだけっていうか、蛆の間を乗り換えていく感じかな」
蛆の乗り換えとやらのコツはすぐに掴めた。
さっき部屋の中でやったように、複数の蛆の知覚をチャンネルとして次々に切り替えていくのだ。フォーカスする蛆を変えるだけで、一足飛びに自己の所在が蛆から蛆へと切り替わり、黒華の蚊を追跡できる。
「私たち群体はトランプの裏面なんだよ、お姉ちゃん。インタポレーションで皆がトランプの表面になったのとは真逆なんだ。トランプの表面ってアイデンティティそのものなんだよね。そこに書いてあるスートと数字を見れば他のあらゆるカードと区別できる、っていうか、区別するためだけに記号が書き込まれてるんだからね。管理局が推進するリベラルな多元主義者と来たら、『あなたは誰ですか?』『はい、私はハートの9です!』ってな具合に、いつでもどこでも自分と他人を区別する記号を持ってるつもりでいるんだ。もちろんスートも数字も無限にあって、『私はスターの476です』とか『私はスクエアの28342です』みたいな自己紹介がいつでも街中にこだましてる。でも、私たち群体はそーいうのとは違う、何も記号が書かれてないトランプの裏面なんだ。他のカードとは区別できないし、むしろ区別できないことこそ裏面の定義だよ。あらゆるアイデンティティを消去されてて誰にも名指されないけど、だからこそ、いつでもどこにでもいて可換で無敵なんだ。例えば、トランプの束からスペードの4だけを無くしたとしようか。個性大好きクラブの連中なら、欠損したスペードの4を探し回って補充しないと気が済まないだろーね。スートと数字は唯一無二のアイデンティティであって、他のどのカードでも代替できないんだから。だけど、私たちはそんなこと気にしなくていいんだ。トランプを束ごとひっくり返して裏面にしてしまえば、無くしたカードのスートも数字もわからないからさ。そんなの何でも替えが効くから、補充するのはキングの13でもジョーカーでもブランクカードでもいいんだ。そもそも最初からカードを無くしたことにさえ気付かないかもね。私に言わせればワイルドカードのジョーカーなんてまだまだ甘いよ。ジョーカーは『誰にでもなれる』っていう立派なアイデンティティにしがみついてるんだから。ホントにワイルドカードになりたいなら、黙ってひっくり返ってしまえば、君がジョーカーかどうかなんてもう誰にもわからないのに!」
どのくらい経っただろうか。
この空間には時間の指標がないのでよくわからない。きっと蛆と人間の体内時計は違うのだろう。主観的な時間感覚さえも曖昧だ。
しかし、じきに蛆と蚊の大都市に辿り着いた。今まで見た中で一番多くの蛆が密集しており、周りには蚊も飛び回っている。数百匹以上の蛆が積み上がっている様子はピラミッドのように、蚊が旋回している様子は航空機のように見えなくもない。
「じゃ、そのあたりの蛆たちに意識を乗せて目を覚まそっか。群体の環世界から個体の環世界に戻るんだ。いくよ、はい、一二の三」
目を開けた。
そこは山の中だった。蒸し暑い山中だが、熱が籠らない程度には冷えた風が身体を通り抜ける。後ろは高い木々の森、前を崖に囲まれた、開けた空き地だ。地面の土はミキサーでかき混ぜたように徹底的に掘り返されて耕されている。
ここは一昨日、軍用ヘリがガトリング砲を掃射した場所だ。
しかし、あたりの様子はいくらか明るく変わっていた。
凸凹の地面の上には小さな雑草の緑が点々と芽吹き始めているのだ。大量の銃弾をかき分けて、力強くもう一度芝生を生やし直そうとしている。
草が集中的に生えているあたりには白骨死体が転がっている。というよりは、死体の栄養を使って植物が育っているのだろう。もう風化しつつあるたくさんの白骨がボロボロのスーツを羽織って風に吹かれていた。白花の蛆虫は無事に死体のほとんどを食べ終えて骨に変えていたらしい。
それでも白花の足元には、まだ食べ切られていない男たちのがっしりした死体が三体も赤い腐肉を付けたままで転がっていた。大量の蛆虫がそれらの表面に取り付き、今も懸命に食事をして白骨に変えている最中である。
太陽と蛆と植物が協働して、ガトリング砲に破壊しつくされた自然を回復しようとしているのだ。死体も栄養として貢献しているあたり、人間も本来はこういうエコシステムの中に組み込まれているんだろうなあなどと柄にもなく感慨にふけっていると、白花は自分が服を着ていないことに気付いた。
またしても全裸、しかも今度は山中で。人間も自然の一部というのは別にそういう意味ではないのだが。
「お姉ちゃーん!」
聞き飽きた声が聞こえる。しかし幻聴でもテレパシーでもないし、電話越しの声でもない。
いつものネガポジ反転した制服を着た黒華がこちらに走ってきて、白花に思い切りダイブして抱き着いた。押し倒された白花の背後には死体がある。剥き出しの背中にネチャネチャした死肉を感じながら白花は妹を抱きしめた。
「てか、死体臭っ!」
最初のコメントを投稿しよう!