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とりあえずシャワーを浴びて服を着たあと、一昨日も来た部屋に再び足を踏み入れる。広い室内には、ジュリエット、紫、遊希、それに黒華と白花を入れた五人が集まっていた。
遊希は紫と一緒に壁際で寝袋にくるまって横になっている。昨日の今日だし疲れが溜まっているのだろう。
「あれ、サークロさんは?」
「作業中で御座います。昨日、椿様たちと交戦した際にわたくしのスマートフォンに音声や映像を残せましたので、その解析にあたっておられるのです」
サークロはこの場にいなくて良かったというのが正直な気持ちだ。色々聞きたいことがあるのに、全てをあの冗長な長台詞で答えられたら一日あってもとても足りるまい。
白花がパイプ椅子に座ると、黒華がおもむろに咳払いをする。中央の紙コップに注がれた麦茶をジュリエットと白花に手渡すと紙コップを大きく掲げて小さく叫んだ。
「それではお姉ちゃんの帰還を祝して、かんぱーい!」
「あ、そういうおめでたい感じでいいの? 椿ちゃんたちに負けたっぽい感じだからちょっと気を遣ってたんだけど」
「んー、ま、それはそーなんだけど、くよくよしても仕方ないからね。面子とか心臓とか色々失ったものもあるけど、お姉ちゃんが蛆になったという成果もあったし、総合収支はプラスということにしておこうよ」
「ええ。およそ戦いにおいて、完全な勝利も完全な敗北も存在しないので御座います。勝利したと思っても謙虚に自省できる者、敗北したと思っても傲慢に利益を掴み出す者が、いずれ成功を収めるのです。故に検討も両面から行う必要があり、ひとまずは勝利した気持ちで始めた方が生産的というものでしょう」
「屁理屈は何でもいいけど、私が蛆になったことがポジティブな成果の方に分類されてることは引っかかるな。別に嬉しくはないんだけど、そもそも蛆になるってどういうことかな。幻聴とかワープも蛆のおかげ?」
「そだよ。ほら、一昨日ここで胸部レントゲン撮ったでしょ。あのレントゲン写真の見立てはジュリエットさんが正しかったんだ。つまり、蛆が心臓を再生させてるんじゃなくて、蛆が心臓機能そのものを代行してたわけ。サミーに刻まれたおかげでその代行が全身に及んで、遂にお姉ちゃんは全身が蛆虫の塊になったってこと」
「聞けば聞くほど恐怖しかないけど、もしかしていま全身レントゲンを撮ったら私は白い粒の塊?」
「そゆこと。今のお姉ちゃんは蛆虫の群れが何となく人間っぽい形で固まってるだけ。私が蚊の群れなのと同じだね」
黒華のシルエットが揺らめいた。右半身が蚊の群れに変わって部屋の中を飛び回る。左半身の口だけが動いて説明を続ける。
「こっからが一番重要なとこだからよく聞いといて、後でテストに出るからね。結局のところ、私とお姉ちゃんは一なる個体じゃなくて多なる群体、中央集権型じゃなくて自律分散型の存在者なんだ」
「んー、言いたいことは何となくわかるけど。命が一つしかない普通の人間と違って、私と黒華は蟲の集合体ってことだよね」
「そ。それによって得られる恩恵が色々あるんだけど、まずは従来の人間が持つ難点について復習しておこーか」
黒華がおもむろに伊達メガネと指し棒を装備する。ジュリエットが照明を消してプロジェクターを起動する。壁のスクリーンに「群体者のトランジスタシスについて ~新たな生命の形~」などと書かれたスライドの表紙が表示される。途端に研究所らしくなってきた。
サークロよりも遥かに研究者らしく、黒華は雄弁に語り始めた。
「一般的な人間生命の難点、それはなんといっても柔軟性の無さだね。色々な順序とか状態が最初から決まってて融通が効かないんだよ。日本型の大企業みたいにね。臓器同士の連携が典型的なんだけどさ」
黒華が手元のスマートフォンをタップするとスライドが進み、様々な臓器の相関図が表示される。脳、心臓、胃、腸、肺などの関係が矢印を用いて記載されている。
白花が大学で発表するときはノートPCを持ち込んでいたものだが、もっと手軽にスマートフォンとプロジェクターを連携させているあたりが若干ギークっぽい。
「例えば消化機能を考えると、食べ物って食道から入ったあと胃を通って腸を巡って排泄されるよね。当たり前だけどー、食道と胃と腸はこの順番に一つずつ並んでちゃんと繋がってる必要があるんだ。ループしたり欠けたり並び替えたりしたらダメ。例えば、胃に穴が空いて機能しなくなったらヒトはすぐ死ぬね。だから人体は必死に自己修復して同じ状態を保ち続けるし、それは体温とか免疫とか細胞も同じ。中央の指令に応じて外からの変化を打ち消す恒常性、つまりホメオスタシスが人間の特長にして弱点なんだ」
黒華はスライドを切り替えながら話を続ける。思ったよりガッツリ生命科学の講義をされているが、言っていることはそれほど難しくない。要するに、人間が身体を維持するためには色々な物事が正しく定まっている必要があるというだけの話だろう。
口頭で捲し立てるサークロとは違い、図が付いていて話す順序も整理されているので理解しやすい。
「で、私たち群体の身体のつくりはそーいうのとは全然違うんだよね。私たちは身体の中に蟲の群れが詰め込まれて、それぞれがバラバラに自律して動作してるんだ」
再びページが切り替わり、人間のシルエットの中に虫が詰まっているイラストが表示される。蟲はリアルな写真ではなく、いらすとやから持ってきたコミカルなイラストだ。聴衆への配慮が感じられる。
しかし、アニメーションが始まって虫のイラストがそれぞれ縦横無尽に動き回って位置を入れ替え始めると、やはり若干の気持ち悪さは拭えない。
「最初にあるのは一じゃなくて多。私たちは代替の効かない一つの生命じゃなくて、いくらでも替えが効くたくさんの生命の集まりなんだ。私たちの意志は個体のエゴじゃなくて群体の総意だよ」
「だから人間と違って融通が効くってことかな」
「そーそー、大抵のことはどーとでもなるんだよね。身体を切り離したところで群れがちょっと離れるだけだし、体内の蟲同士はいくらでも入れ替えられるし。ほら、お姉ちゃんがサミーに刻まれたときも蛆がテキトーに身体の形をそれっぽく作れればなんか大丈夫だったでしょ? あらゆる構成要素が無限に変転する非平衡系、それが群体者のトランジスタシス!」
「あれ、でも紙やすりかけてたときは黒華も普通に血出してなかった?」
「厳密に言うと、私たちは完全な群体ってわけでもないからね。ホントに百パーセント群体だったらこーして喋ることもできないし、個体と群体の極を結ぶ直線上でかなり群体寄りの場所にいるってだけ。基本的には個体っぽい人間のフォームを選択してるから、この状態で不意打ちされたら出血することもあるね。でも意識してればこのくらいは何ともないよ」
黒華は机に置いてあるハサミで自分の指を躊躇なくちょん切った。
もはや血すらも出ず、切られた指先の肉は蚊となって空中に霧散する。しかしその蚊たちはすぐにもう一度指先に集まり、再び指の形を成した。
白花も恐る恐る自分の指で試してみる。一気に切る勇気はないので少しずつハサミを食いこませる。指がぬるぬると切れていくが、血は出ないし痛みも全くない。完全に切断すると断面には蛆が顔を出している。しかも再び繋ぎ合わせるだけでくっ付いた。まるで出来の悪い粘土だ。
ヴァルタルにしたような治療とは明らかにメカニズムが違う。白花の身体はもはや傷付かない。治癒対象ですらないのだ。
「じゃ、ワープと幻聴は?」
「ワープの方はそんなに難しくないよ。今まで私たちの身体は蟲の群れだって強調してきたけど、それは蟲の群れが身体の形になってるってのと同じだよね。蟲は身体の中だけじゃなくて外にもいて、お姉ちゃんの場合、自分の部屋のゴミ袋とか、さっきの空き地で死体の中に蛆が群がったりしてるワケ。蛆はお姉ちゃんだから、お姉ちゃんは自宅にも空き地にもいることになるね。身体が切り離せると存在を分散できるんだ。だからさっきみたいに自我のウェイトを変えるだけでその間を移動したりもできたりね」
「ああ、別にワープじゃなくて元からどっちにもいるっていうのはそういう」
「そーそー。こういう自律分散と偏在のモチーフって技術的にはワールドワイドウェブの構成に近いんだけど、お姉ちゃんは文系だからそーいうのを持ち出すと却ってわかりづらいかな」
黒華は複数のページを確認しながら飛ばしていく。
飛ばしているスライドを斜め読みすると、インターネットの成り立ちや通信プロトコルとやらについて解説しているようだ。ジュリエット曰くかなりのエンジニアでもあるらしい黒華はそのあたりに詳しいのだろう。
しかし、喋りたいことを喋るのではなく、聴衆のレベルを考えてスキップできるあたりはサークロと違って大人だ。ずっと堂々と説明しているし、こういう機会にも慣れているのかもしれない。
「幻聴の方はちょっと難しいね。説明するんじゃなくて見せた方がわかりやすいかもね」
黒華がセーラー服の裾を捲り上げた。ブラをはだけて胸を露出すると、胸の肌色がタイツのように透けて見える。黒華の皮膚はもうタンパク質ではなく蚊の群れだ。
小虫に覆われた内部には見慣れた赤い肉片が収納されていた。正確に言えば、見慣れているのはその肉片自体ではなくて、その周りに蠢いている白い蛆虫だ。
「ひょっとして、それ私の心臓?」
「そ。お姉ちゃんの心臓を私の身体に移植したんだ。さっき言った『大抵のことはどーとでもなる』っていうのは、量的な意味だけじゃなくて質的な意味でも成り立つんだよね。つまり、蛆と蚊をテキトーに混ぜてもやっぱりダイジョブなんだ。人間と違って拒絶反応なんか起きないよ。例えば仮に私はもともと蚊一万匹の群体だとして、この心臓が蛆百匹の群体だとすると、今の私は蚊一万匹プラス蛆百匹っていう新しい組成の群体ってこと。それで聴覚システムもちょっと混線して、お姉ちゃんの心臓越しに話しかけられるようになったみたいだね」
「そんなドリンクバーのミックスレシピみたいなノリで人の心臓を」
「私も試したのは初めてだけどね、お姉ちゃん以外と混ざるのなんて気持ち悪いし。たぶん、私たちの身体は色々なことにフレキシブルに対応できる代わりに、ブレンドしたりチャンポンしたりもできちゃうんだ。人体は融通が効かない代わりに外乱に強くて安定してたのとは反対にね」
「うーん、一つだけわからないな。さっきの説明なら心臓だって蛆の塊でしかないはずでしょ。器官なんて『どーとでもなる』と言いつつ、心臓の移植にこだわるっていうのは矛盾してない?」
「お、いい質問だね。そこが代替命の神秘なんだよ。これは私の推測だけど、たぶん存在を混ぜる方法は何でもいいわけじゃなくて、いくつかある手続きのどれかじゃないとダメなんだと思うよ。代替命の移植はその一つで、代替命は個体性と群体性の狭間にある何かなんじゃないかな。ま、今でも正確なところは全然わからないし、移植だって見切り発車だったけどね」
そこでスライドショーの終了を告げるシステムメッセージが表示される。ジュリエットがプロジェクターを消し、代わりに部屋の電気を点けた。
研究発表終了。
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