第9話:蝙蝠であるとはどのようなことか

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 コースターは全てのレールを走り終わって最初の停留所に戻ってきた。  しかしスピードは全く落ちず、そのまま二周目に突入する。本来のフジヤマは一周で止まるはずだが椿が設定を弄ったたらしい。今度はチェーンリフトも一気に駆け上がっていく。  停留所からコースターが飛び出す瞬間、屋根の上から紫の蛞蝓が一匹降ってきた。蛞蝓は白花の崩れた身体の上に着地する。直後、蝙蝠が蛞蝓ごと蛆の群れを捕食した。  そのとき、白花は新たな世界を直観した。初めて見る三次元空間だ。とにかく赤く染まった背景、その中に黒くてM字型の影がいくつも舞っている。  無数の蝙蝠が飛び回る真紅の世界。ここは蝙蝠の環世界だ。 「うわ、オシャレ。アリプロっぽいね、世界観が」  白花は椿の環世界に足を踏み入れた。  今、蛆虫の群れは蝙蝠の群れに組み入れられつつあった。それは蛆虫である白花に、蝙蝠である椿の環世界に入場する資格が与えられることを意味する。主客を転倒させる蛞蝓が存在と世界の垣根を崩し、そのきっかけを作ったのだろう。  これで今の白花は三つの世界を同時に認識できる。もはや両目では足りない。蛆虫で急ごしらえした脳っぽいものを使い分け、並列処理で三つの世界の重ね合わせを見る。  一つ目は人間の環世界。白花の人間個体としての世界。  ここではジェットコースターが走り、強い風が吹き付けて風音が鳴っている。蝙蝠がコースターの周りを縦横無尽に飛び回る。宙を舞う蛆虫が食われ続けている。  白花の身体はハーネスに抑えられた胴体のごく一部にまで減少しつつあった。全て食い尽くされるのは時間の問題だ。  二つ目は蛆虫の環世界。白花の蛆虫群体としての世界。  暗闇の中、蛆虫はどんどん数を減らしている。蝙蝠の姿は見えないが、食われた蛆虫はイラスト編集ソフトで消しゴムをかけるようにただただ消滅していく。  黒い背景に十分な灯りをともせるだけの蛆虫がいなくなったとき、きっとこの世界は閉じるのだろう。  三つ目は蝙蝠の環世界。椿の蝙蝠群体としての世界。  真紅の背景の中、蝙蝠が無数に飛び回る一方で蛆虫がそこら中からどんどん飛び出してくる。蛆は湧き出しているのではなく、蝙蝠が蛆を食べることで外部から持ち込まれているのだ。  ここに全ての蛆虫が移ってきたとき、白花は完全に椿の中に取り込まれることになる。 「さて、どうしたものかな」  三つの世界をぼんやりと見つめて考える。自分は何がしたいのか。  冷静に考えよう。このまま椿に取り込まれたとして、白花に何か重大なデメリットがあるだろうか。殺されても友達なら食われても友達、意外と仲良くやっていけるのではないだろうか。  実際、真紅の世界においては、蝙蝠は蛆虫を食べるわけではない。既に一つの群れを構成する対等な関係であり、捕食者と被食者の関係ではない。蝙蝠が蛆虫を食べるのは、あくまでもここに蛆虫を取り込むために過ぎない。  正直に言えば、蝙蝠に食われ続けている間、確実な喪失感と共にマゾヒスティックな爽快感もあった。自分の身体が削られていくのと同時に蝙蝠の身体に組み込まれていくのは明らかに一つの快感だった。 「よいしょっと」  白花は蝙蝠の環世界にダイブした。つまり、分割可能な自我のウェイトを真紅の世界にいる蛆虫に全て割り振った。  今朝の夢のように、主観視点でこの世界を内側から見ることができる。蝙蝠は蛆よりは高度な生物だからか、暗黒の世界よりも少し知覚が充実しているような気がする。微かに椿の匂いがする。思った通り、居心地は悪くない。 「椿ちゃん?」  声を出してみる。朝の段階では出来なかったことだが、今の白花は群れの総意を汲み取って能動的に行為することさえ難しくない。 「椿ちゃん、椿ちゃん……聞こえる?」  妹のように呼びかける。しかし、返答はない。 「椿ちゃーん……昔ハンディクリーナー借りパクしてごめーん……」  何度試しても同じだ。嫌な予感が的中した。  白花の声は椿には届かない。今朝、白花から黒華には声が飛ばせなかったのと同じように。  その理由は白花にはもうわかっていた。声とは鳴き声ではなく言葉であるから、蟲の群れではなく人間が個体レベルで行う行為だ。よって、その有効性は人間の環世界における優劣関係で決定されてしまう。  恐らく、黒華が白花の心臓を取り込む場合でも、椿が白花を食い尽くす場合でも、異物として参入する白花の方が個体としては劣位になってしまうのだ。実際、この世界のベースは真紅の背景であり、蛆はたまたま入ってきただけの居候に過ぎない。会話コミュケーションは双方向ではなく優位から劣位へという一方向になってしまう。 「それは、嫌だなー……」  この五日間、ジュリエットや黒華と接する中でようやくわかったことがある。  白花が最も大切にしているのは関係の対称性だ。白花にとって、命も傷も声も共有していなければ共に生きることにならない。死ぬのなら共に死ぬ、傷付くなら共に傷付く、話すのなら共に話すべきだ。それこそが理想的な関係としての運命共同体であり、そこに一方向の優劣関係など認めるわけにはいかない。  ならばやることは一つしかない。蝙蝠による蛆の取り込みを阻止しなければならない。ただ、そう意気込んでみたところで白花の手元にあるのは蛆だけだ。 「蛆って何が出来るのかな」  隣を這う蛆を見ながら考える。  白花と同じくらい何も考えていなさそうにボーっと這っている乳白色の小虫。こいつが這ったり食べたりする以外にやれることは何かないか。それもこの、外様である真紅の環世界において。  群体者などという大きな括りが現れて少し浮かれていたが、結局のところ、白花にはいつだってこの蛆虫しかない。白花は蛆虫になった。では蛆虫は何になるのか。  いや。なれるというか、普通になるんじゃないのか? 「蝿!」  この十年間、蛆をずっと「蛆」という完結した生き物だと思っていたが、蛆は蝿の幼体だ。つまり変態ができる。蛆は蛹を経由して蝿になる。この当たり前の事実に初めて気が付いた。 「蛹って要するに引きこもりってことだよね」  それなら白花の得意分野だ。息を止め、可能な限りの動きをストップさせる。  するとすぐに身体が硬化して体表面の色が濃く変わり始めた。乳白色の蛆虫が小豆色の蛹に変わっていく。  もちろん蛹になるのは一匹だけではない。白花は蛆の群れだからだ。群れの全てが雪崩を打ったように次々に変態を開始する。 「あれ、先輩ひょっとして変態してます?」  椿はすぐに気付いた。  椿の目の前にある白花の身体はもうごく僅かな一部しか残っていない。胴体はほぼ食い尽くされ、仕事を無くしたハーネスはもはや何も抑えていない。残っているのは腰から足の付け根までの下半身の一部だけだ。  それを形作っていた蛆が茶色く変わっていく。宙を舞っている蛆虫たちも同じだ。 「そうだよ、椿ちゃん。蛆虫は幼体だから蛹になれるんだ」  白花は腹の底から答えた。比喩表現ではなく文字通りの意味でだ。つまり、胴体部分から声を出していた。  蛆虫が作る身体の器官は全て可換だ。機能を局在させないのが群体である。腹で喋るのも、指先で見るのも、目で掴むのも自由自在だ。そもそも、言語中枢があるはずの脳だってもうだいぶ前に食われつくしている。 「へえ、どんな形態だろうが先輩には変わりないんだし、別に構いませんけどね。白米が雑穀になったみたいに、ちょっと硬くて食べづらいくらいです。もし蝿になったところで蝙蝠の方が機動力は上ですから、普通に食べて終わりですよ」 「私は蝿になりたいわけじゃないよ。空を飛び回るより地面を這ってる方が楽そうだし、土壇場で成長して逆転するやつってあんまり好きじゃないんだ。私はそういう生産的なことをするキャラじゃないし」 「ですよね。じゃあ、何をするんですか?」 「何もしないよ。蛹でもう終わり。ここが変態の終着点」  白花は蛹の動きを完全に止めた。ただ動かないだけではない。生命維持活動の一切を止めた。  小豆色の蛹は更に濃く変色して真っ黒に変わる。そして風に吹かれてサラサラと崩れ、塵になって宙に舞った。  さっきまでのように蛆が空中に飛ばされていたのとは全く違う。完全な無機物となって、どの環世界からも消滅する。  存在の不可逆消滅。つまり、死だ。 「え、何してるんですか?」 「自殺だよ、椿ちゃん。私の特技なんて最初からそれしかないんだ。本当は蛹の役割って二つあって、一つは幼虫の身体を破壊すること、もう一つは成虫の身体を構築すること。自己破壊と自己形成のプロセスが虫の変態なんだよね。だけど私は前半分だけでいいよ。成虫になんて、大人になんてならない。何にもならずにそのまま死ぬ」  蛹は変態した傍から死んでいく。  白花の蛆は空に羽ばたくために蛹になるのではない。自殺するためだけに蛹になるのだ。手段ではなく目的化した死の行軍。何も生み出さないし誰も利さない、不毛の極みの集団自殺だ。  蛆が蛹を経て死滅していくのと同時に蝙蝠も朽ちていった。翼の先端から土気色に変色して次々に地面に落ちていく。先ほどまで縦横無尽に宙を舞っていた蝙蝠たちはもう地面に向かう垂直な軌道しか描かなくなっている。蝙蝠の死骸が音を立てて地面に積み重なっていく。 「何で蝙蝠まで死ぬんですか? 何をしたんですか、先輩!」 「あれ、椿ちゃんは群れが群れを取り込むことの意味がまだよくわかってなかったのかな。群れが混ざるってことは、蝙蝠と蛆が群れた新しい存在者になるってことだよ。もう私と椿ちゃんと蛆と蝙蝠は群れとしては一括り、運命共同体なんだ。蛆が集団自殺すれば同じ量だけ蝙蝠も道連れになって死ぬに決まってるよ。それで群れが全部死んだらその総意も死ぬ。これから全部の蛆虫と私が自殺するから、蝙蝠と椿ちゃんも一緒に死のうね」 「ふざけないでください、死んだら終わりじゃないですか!」  椿は僅かに残っている白花の腰部分をバンバン叩く。しかし、埃が舞うように茶色い粉末が飛び散るだけだ。身体はもう蛹の死骸に変わり果てていた。  椿の身体も徐々に土気色に変わり始めた。顔も身体も塵のように崩れていく。走り続けるコースターとアポトーシスが止まらない。 「先輩みたいに生きたいから今まで頑張ってきたんです! 先輩みたいに死にたいなんて思ってません!」 「主観的にはその二つって同じだと思うけど。そもそも自分の生死を二項対立で捉えるところから間違ってるよ。死なない生物なんていないんだから、この世の生命には最初から死しかないんだ。生まれたての赤ん坊は零パーセント死んでて、死体は百パーセント死んでるってだけ。人生は零から百までの間を歩いていく道程で、終着点にある死とはいつも連続的に繋がってるよ。だから死って相転移じゃなくて反応速度の問題なんだ。私はいま椿ちゃんと死ぬのに満足してるよ」 「私は死にたくないです! 先輩、止めてください! 謝るからやめてください! 今まで冷たくしたことも襲撃したことも全部謝るから!」 「一度も怒ってないから謝らなくていいよ。私が椿ちゃんに嫌だなと思ったことなんて、さっき声が届かなかったときくらいしかないんだ。本当に好きじゃなかったら自殺には巻き込まないよ、大事な友達だから一緒に死のうね」  ジェットコースターは再び最後の直線部まで来ていた。ゆっくり減速して停留所で停止する。やっぱり華やかに走りながら死ぬというのは白花の性に合わない。最期は地味な方がいい。  友達と遊園地で遊ぶのに比べれば、死なんて何ら特別なイベントではないのだから。
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