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非の打ち所がない先輩
本庄さん、フォークリフトにも乗れるんだ。
あんな華奢な体躯なのに。すごいな。
「上里さん?」
事務員の私が現場にいることに何か要件があると思ったのか、本庄さんがフォークリフトから降りてくる。
……気を遣わせちゃったな。
しかし善意で来てくれている以上は尋ねるべきか。聞くは一時の恥だから。
「お忙しいところすみません」
工場長を探していますと聞くと。
「ああ、今は倉庫内にいらっしゃいますよ。ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
「実は……」
ただ人を探していますだけでは情報の共有にならないため、在庫割れの件を話した。
本庄さん、できる人のオーラあるっぽいからついついね。そしてその予想は外れていなかった。
「希望の納期が明後日まで、でしたよね」
「はい。不足分は5ケースです」
「それだけでしたら、本日中に仕上げられます。現在Cのインサートはそれ以外の注文が入っていないので」
「本日中、ですか」
「ええ、大体1時間くらいで仕上がります。予定は変えず、今その作業をされている方に追加注文の旨を依頼。少し多めに見積もって。そう、お伝えいたしますね」
「あ、は、はい」
すげえ。現場監督みたいな頼もしさを感じたぞ今。
注文分と作業工数を把握してないと出ない台詞だ。
「まずはその意向で工場長に確認を取りますので、ご同行願えますか」
本庄さんは邪魔にならない位置にフォークリフトを停めると、倉庫まで案内してくれた。
「ありがとうございます。すごくお詳しくて、頼もしい限りです」
「いえいえ、ここはあんまり注文が入ってこないので」
……さらっと不穏なことを言われた。
本庄さんを通して、無事案件もなんとかなった。運送屋さんへの連絡も済んだ。
「この後は元帳への記入なんだけど、それは午後からでいいよ。もうすぐお昼だし、メモにまとめる時間あげるから」
「はい、ご教授いただきありがとうございます」
狭山さんはコーヒーを入れるため、席を離れて給湯室に向かっていった。
さっそくメモ帳を開いて、机の中にしまっていた清書用のメモ帳も取り出す。
うげ。
聞き取りながら書いてるにしても。私、字きったねえなあ。
みみずが這ったような文字列で、書いた本人ですら解読難しいよ。おまけに小さいし。
小声で早口の特徴、そんなとこに反映されなくていいんだけど。
にらめっこしながら黙々と右手を動かしていると、電話を終えた部長が席へと戻ってくるのが見えた。
「おさらいですか。感心ですね」
はははと苦笑いが漏れた。悪い気はしないけど、この崩れた字もどきを見られたくない。
「無理やり頭に叩き込んではいるのですが、まだ半分も理解できているか怪しくて」
「まだ入って3日でしょう。何もかもが初めてでしょうし、焦ることはありませんよ。その小さな積み重ねが良い働きを産むのです」
あの方みたいにね、と部長は工場長とPC画面を見ながら話し込んでいる本庄さんに目を向けた。
「すごいですよね。本庄さん。できる方で」
「どの社員よりも、あの人は知識に貪欲でした。任されたご自身の仕事をただこなすだけではなく、全体を把握して大まかな業務はカバーできるまでに成長された、と伺っております」
「お給料以上の働きぶりですね……」
見方を考えれば、できる人だからってなんでも仕事を押し付けられないか心配だけど。
「…………」
なるべく女性らしく丁寧な文字へと書き起こしていく私に、部長は太い眉毛を上げ下げしながら小さく唸った。
「書きながらで結構ですよ。問題はそこなのです」
「問題、ですか」
「あなたのように1から書き写したり、本庄さんみたいに自分から吸収していって仕事を覚えていくスタイルです」
それが普通じゃないのか? 教えてくれるって言っても、他の社員さんにも仕事があるわけだし。
つか、そもそもだ。
私は今更のことに気づく。
「……この会社、マニュアルないですよね」
「仰るとおりです」
そりゃ長年勤めてきた人しか残らないわけだよ。見て覚えろってスタイルじゃ。
比率としては作ってない会社のほうが多いんだろうけどさ。
「無いことにも理由はあるのですけどね。自分用のメモ書きではなく、他人に伝わるようにレイアウトや手順を考えて作らないといけないわけですから」
他人に読んでもらうことが前提。
なので、主観で書くことは下手するとルールの押し付けになりうる。
「当然時間はかかりますし、マニュアルを作るために会社に来ているわけではない。自分用に叩き込んで、実務に当てるほうがよっぽど効率がいい。そんなところでしょうね」
部長は歯がゆそうに、組んだ指に力をこめた。
現実はそんなもんか。8時間も仕事する時間はあるっつったって、みんな自分とこの業務をこなすだけで精一杯だ。
「良いではないですか。最初は自分用からでも」
本庄さんの声がいきなりこちらへと届いて、部長と同時に顔を向けた。
横からすみません、と本庄さんは頭を下げると、私の席へと向かってきた。
毛先がカールされたおさげがふわふわと揺れる。
「実はわたしも、業務マニュアルの作成を検討していたところでして」
「ああ、それで」
割り振られた仕事以外にも積極的に踏み込んでいたのはそういうことだったのかと、部長が合点がいったように頷く。
確かに、ある程度全体の流れを把握してないとできないもんね。
「業務フローは年単位で変わっていきますし、凝り固まって想定外の事態に対応できないというデメリットもございます。仮にマニュアルがある会社でも、ずいぶん昔のやり方で止まっていて上司の教えと食い違っている。担当者個人の覚書のみが頼り。よくある話ですね」
あるあるだ……最初の会社とかマニュアルこそあったものの、PCのバージョンが何世代も前で止まってんだもの。
おまけのそのマニュアル自体、付箋と前任者による赤ペンやメモが満載でめちゃめちゃ見づらい。結局自分用にメモ帳に書き記したっけな。
「なので、最初は個人用にまとめるだけでいいと思います。最初から完璧を目指そうとすればするほど、完成は遠のきます。改善点を見つけたらその都度アップデートしていけばいい。マニュアルで一番大事なのは、定期的な整備ですので」
確かに。機会を待つんじゃなく、忘れないうちにちょっとでも触れておかないとな。
Officeのおさらいにもなるしね。手書きじゃ書き直すのが面倒だけど、デジタルなら修正も早い。
今日からでもチャレンジしてみるか。
仕事目的なら、PCは好きに使っていいと聞いているから。(社内ネットワークの私的利用は管理者がいるのでほどほどに)
「上里さんって、Officeのエキスパートまで取得されているのでしたっけ」
「ああ、はい」
本庄さんの声は期待に弾んでいる。でもあれは、基礎問題を繰り返し叩き込んだから取れたようなもんだ。
数学の公式と同じように、いざそれを活用して仕事に活かしましょうとなるとできない。
問題を解いたことはあっても、自発的に何かを作成したことはないから。
「心強いですね。お互い、頑張っていきましょう。応援しております」
ぐっとこぶしを突き出して、本庄さんは胸を張った。
潤った唇から白い歯がのぞいて、じわーっとやる気が湧いてくる。
モチベが上がるのは、同性も一緒だ。心なしか、部長も工場長も姿勢を正した気がする。
「…………」
その中で。
直属の上司なのにマニュアル談義には一言も混じらず、無言でコーヒーをすする狭山さんにそれとなく温度差を感じた。
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