思い出の匂い職人

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「思い出の匂い」職人として、仕事を再出発しました。 正確に職業名を言うと、「メモリアルアトモスフィアコンディションセラピスト」というものです。まぁ、舌を噛みそうな言いにくさと長すぎる名称で覚えにくさ満点です。 仕事の内容というと、「匂い」でフラッシュバックする記憶から、過去の思い出の場面にリンクして、その時に分泌されていた脳内物質の再発を促し、ストレスの軽減から、モチベーションの向上を進めて、心の健康を保っていく、っていう仕事です。 それだけを聞くと、なんだか怪しいドラッグとか危険な匂いがします。 しかしここ数年で、人間の脳の分析がより進み、脳内の50%の領域や動き、役割が解明されてきました。 そのおかげで嗅覚による脳に与える影響の分析が数十年前より大きく進歩し、セラピスト的な仕事も発生して、職業として認められるようになりました。 例えば、 「4月の朝、玄関から出た時にふっと鼻をくすぐる、冷たい空気の中に感じられる陽に照らされて植物から発散された水分や、スズメの鳴き声。飛び立ったスズメが巻き起こした植物の青臭い空気の揺らぎ。自分自身は新しい制服を着た今日から新学期が始まる学生の、まだ糊の硬さが抜けないワイシャツやブレザー、新しいカバンから発せられる皮の匂い。緊張はしているけれども、その全てが合わさって感じられる“期待感”が、玄関からの最初の一歩を踏み出させる記憶」 その時の複雑な「空気成分」を再現しつつ、温度や湿度はもちろん、VRマスクをかけてもらった上で、視覚と聴覚、触覚、嗅覚の反応も再現させます。 その結果、脳内物質の分泌を当時と同じままに促し、記憶の中にある高揚感や期待感、胸のときめきという現在の科学でもまだ「曖昧な何か」を再現できるようになりました。 この一連の流れを再現できる仕事人のことを「思い出の匂い職人」という訳です。あの覚えにくい「メモリアルアトモスフィアコンディションセラピスト」よりも、ずっと言いやすく、こっちの名前の方がメジャーになっています。 この匂いと映像のリンクによるモチベーションセットは効果的で、利用者の満足度は非常に高く、数多くのリピーターにつながっている、今の世界ではメジャーな仕事の一つになりました。 目の前のお客様は30代男性。新規のプロジェクトのリーダーを任されて多忙な日々を送っているそうです。 かつては趣味の登山で休みの日はリフレッシュしていたということですが、現在は登山自体が変わってしまいました。海の中に沈んだ山を登るというより、山の地表から離れないようにしっかり足をつきながら、海水の中を登っていくというものになりました。 ちなみに、海に沈んだ山の頂上は、海面に一番近くなるので、太陽光に一番近くに浴びることになります。紫外線に直接あたるリスクが発生しますが、海水によるフィルターがあるためぼちぼち安全だということだそうです。また、山から滑落するリスクはなくなりましたが、現在の水深数百メートルの水圧から、海面近くの水圧に慣れることが出来るかどうかが問題になるのが今の「海中登山」だそうです。 お客様の経験し、今回の依頼となっているのは、かつて学生時代に経験した本物の登山の再現ということです。海抜3000メートル以上の山を装備品十数キロ分背負って大地を踏みしめつつ登った記憶。二日かけて上り詰め、山頂から見られた日の出に強い記憶があるということです。その時の薄い空気から感じられた清らかなでさわやかな空気の印象と、日の光に照らされることによって少しずつ温まる体表、自分の吐く息の白さ、隣にいる一緒に上ってきた登山パートナーたちとの、仲間意識。その仲間たちと同じ景色を共有している高揚感を思い出したいということでした。そ高揚感をもって更なるプロジェクトにまい進したいという依頼です。 現在の海中環境移行時、地表のあらゆる生物はクローニングされ、水没時以前に絶滅していた生物以外はすべて再現可能なので、今回のお客様の依頼である、山の頂上の薄い空気と岩肌の組成、高山植物、日の光から温められる装備、仲間たちの再現も完璧に準備出来ました。お客様には当時の登山と日の出を完璧に再体験させることが出来ました。 VRマスクに取り付けられている脳波モニターにも達成感と感動、モチベーションの数値が上昇しているのが表れています。 男性がやる気の満ちた背中をみせ事務所から出ていくのを見て、私には一つの仕事をやり遂げた達成感が与えられました。 そのような仕事内容で、多くの依頼を受け付け、ある時は高齢の方から連れ合いの方が無くなり、生きがいが失われてしまったということでしたが、「結婚式のブーケトス」の瞬間に感じた多幸感の再現により前向きにいきられるようになり、寝たきり状態から再起できたであるとか、別の時には「幼馴染に告白してOKをもらった時の夕暮れ」の再現で夫婦の離婚の危機を回避したなど、多くの方の心のケアや生活のケアに役立ってきました。 匂いを交えた記憶の再現ということで言えば、別の分野での効果もみられるようになりました。 それが、犯罪の防止です。 過去の良かった記憶を再現できるのであれば、過去のつらかった記憶を再現できるようにも当然なるわけです。 犯罪を犯した者に対して、拷問を実際にかけることなく、拷問のシーンをリアルに脳内に再現させることが出来るようにもなりました。これで犯罪者の内面から更生を進められるようになり、再犯率が下がった、ということも記録として付け加えておいても良いでしょう。 ただ、仕事の依頼を繰り返し対応していくうちに、徐々にお客様の数が少なくなっていることが少しの心配ごとではありました。これだけ人の役に立っているにも関わらず、です。 人間の脳の研究が進み、50%まで分析されていると言われた内容ですが、それでもまだ、究明されていない機能があります。 それが「忘却」出来るの脳の仕組みです。 うれしい、楽しいといったポジティブな感情の記憶だけではなく、悲しい、つらいといったネガティブな記憶の積み重ねが連動し、その人の人格が形成されていることが判明している現在。過去の記憶からもたらされる高揚感やモチベーションを刺激することで、心の癒しを与えることができていたからこそ成り立っていたのが私の仕事です。なので、脳の「忘却する」という機能が仕事を続けていくうえで多大な影響があることには間違いありません。 その忘却機能が、人類の地表から海中への生存環境の変化のせいなのか、それとも何かのウィルスのせいなのか、「感情につながる記憶が忘却されやすくなる」という傾向が強くなっていきました。 特に海底生活に切り替わる以前の、地表時代にて記憶されていた内容が忘れ去られていることが多くなってきていました。 様々な研究者がその記憶のありかや、忘却する脳のシステムについての分析を進めています。しかし、思うような成果は出ていないどころか、そもそも残りの脳の50%の機能の中にその答えがあるかも、わかりません。 こうして、過去の記憶というものが無くなっていく流れの中で、私の仕事も少なくなり、ついには利用者がいなくなってしまいました。 今の私の仕事は、過去に実施したセラピーのサンプルを記録し保管することだけです。保管が完了してしまえば、もう一度、過去の追体験をしたい、という要望がない限り、その記憶の扉を開くことは、もうないでしょう。そしてその追体験の希望も、過去にセラピーを受けた経験も、きっと忘却されていくのでしょう。 「思い出の匂い職人」のやってきたこと、その職業の記録自体、本当に思い出の職業になってしまいました。 また転職です。なんともうまく行かないものですね。
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