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心臓、れいぞうこのなか(7)
その日自宅に戻ると、母はトイレから出てきた。
玄関の靴は中敷きが新しいものへ変わっている。
ただいまを言わずに板の間へ上がるとひっぱたかれた。
いい、こんなものは全然痛くないのだ。さっきの哀しさに比べたら。
ワタシは自分の最低最悪な悲劇を使っても、お姉ちゃんの一日の特別な出来事にはなれなかった。
そのことにがっかりしていて、母の怒鳴り散らす声も、内容も、きちんと把握できなかった。
結局寝る時だって、このちぐはぐな肌へと伸ばされる母の腕を払う気にもなれなかったのだから、ワタシの体は、心は、14年間一度たりともワタシのものではなかったのだ。
小学校の時の教科書のページ一枚一枚に数字を書いて、それをめくっていく。
あと少しだ。
ワタシは中学を卒業したら、お姉ちゃんと一緒に東京へ行く。
そう、約束をした。
この体に書いてくれた。
ペタンコで薄っぺらい、男なのに情けないと言われバカにされてきたこの体を、歪に愛したのは母とお姉ちゃんだけだ。
それでも、お姉ちゃんはワタシの尊厳を奪わないでくれる。
面倒そうに、気だるそうに、それでも優先してくれる。
ワタシの心はここでなら生きられる。
適当に頷いてくれる。聞き流してくれる。大した事ない、お姉ちゃんには関係のないことだからだ。本当にそれだけなのかと責め立てられたりしない。
さらに、さらに、もっと、もっと、全部出せ、話せ、教えろ、全てだ、と、根掘り葉掘り訊ねてきたりしない。母とは違う。
しなやかな腕の中、胸に頬を埋めて眠る時、ワタシは何度でも安らかに死ねるのだ。
「これが愛してるってこと?」
「そんなわけないでしょう」
お姉ちゃんは笑う。儚い笑みが似合う彼女は、大口を開けて馬鹿笑いする。
なんだよ、と拗ねて、ため息をつく彼女の分厚い瞼の薄いきんいろを舐める。不味いな。
こんなおばさんにバカなこと言わないの。
お姉ちゃんはオバサンじゃない、卑下するようなこと言わないで、年上に、って言えばいいじゃない。
生意気なんだから。
お姉ちゃんはワタシの天使のようなひと。
ますます、ひ、ひ、としゃくりあげるように笑い始める。
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