置き去りの心

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歯科大学を卒業して地元に戻ってきたのはこの春のこと 本当は戻りたくなかったのに 態々、二時間も車を走らせては 週末のたびに説得に訪れる両親と兄に負けたのは去年のことだった 六年の夏前には臨床研修医として勤務する病院へのアプローチが始まるのを見越して 押しかけて来ていたのだから 確信犯には違いないけれど 密かに始まった母の思惑に 半ば投げやりに応じた日のことを 一年経った今、心底後悔している ・・・ 設備の整った橘病院で臨床研修医として働き始めて数ヶ月 『先生』なんて呼ばれるむず痒さにも慣れてきた 歯科には女医が在籍していないこともあって 患者さん受けも良かったのか 今のところ問題なく勤めている 「立川先生、来月の勤務表で〜す」 衛生士の中でも一番若い上松さんは 毎月頼んでもいないのにプリントアウトしたものを手渡してくれる 「ありがとう」 「どういたしまして〜」 勤務表もタブレットの中にあるから 紙ゴミが増える分、気が重いんだけど 優しさなのかなんなのか 考えるのも面倒だから遠慮なく貰っている サッと眺めるだけのそれに 今回は視線を止めた 「・・・?」 「どうかしましたか〜?」 「歯科検診?」 「あ〜、それ、学会と重なってて 医師不足とかで、立川先生もご指名がかかりました〜」 【東白学園歯科検診】 学生相手のそれほど面倒なことはないが まだジッとしてる高校生ってだけマシか 「仕方ないわね」 一番下っ端なのに 暴慢な態度を取ってしまう私を もはや通常だと思っているのか 上松さんは笑って流してくれる だからって訳じゃないけど、語尾が長いのも許せているし なんならこの子のことは嫌いじゃない 「それ、私も絶対行くので 楽しみにしましょうね〜」 なにが楽しみなのかは置いといて 上松さんと一緒なら 退屈しないかもしれない そんなことを思っていた私は 最悪の出会いがあることを まだ知らない
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