置き去りの心

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六月下旬の週末に 東白学園の歯科検診日は設定されていた 明け方から始まった土砂降りの雨が、気分をさらに憂鬱にする 「咲羅、お前は乗っけてってやる」 「・・・え」 東白学園まで乗り合わせで行くと聞いていたから どこかに乗せて貰えば良いと、特にお願いもしていなかったのに 朝のミーティングに突然現れた橘院長は、誘拐犯みたいに私の手を引いた 「誤解されたらどうすんの」 「歳の差があり過ぎて誤解なんかされるか それにな、生憎俺には最愛がいるんだよ」 「ふんっ、軽薄な男」 いつまで経っても院長は私のことを子供扱いする それは、院長と父が仲が良いとか 大好きな彼が此処に長い間入院していた所為だとか 並べると理由はまだあるんだけど とにかく、院長から見れば私は “可愛い娘”になるそうだ 「忘れたか?」 季節ごとに聞いてくるこれにも慣れたもので 「忘れる訳ないわ」 「チッ、案外しつこいな」 「一途って言って欲しいわね」 「俺の息子に嫁ぐまでには忘れろよ」 「嫁がないわよ」 以降の会話も毎回同じだから 台詞みたいに覚えている 「今年も行くのか?」 「もちろん」 「あのな・・・」 “気をつけてな”で終わりじゃないの? 今年に限って予測を裏切ってくるから 運転席からこちらを見ている院長に視線を向けた 「忘れろとは言わねぇが いい加減、思い出にしろよ」 「・・・」 院長の言いたいことは理解できるけれど、それを受け止めるかどうかは別の話 「睨むなよ」 思い出になんてするつもりもない 大好きな彼を思い浮かべたことで 締め付けられる胸に どうやら院長を睨んでいたらしい 「いい加減、前に進めよ」 「進んでるわよ?生きているんだもの」 朝から雇用主と喧嘩するわけにはいかないから ワイパーが役に立たないフロントガラスへと視線を戻した
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