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私の実家は今住んでいるマンションから、徒歩10分くらいのところにある。
悪阻で具合の悪い私の様子を心配した母親が時々顔を出してくれていたのだけれど、悪阻になってから、まともに固形物を口にしていないことや、そのせいで良平さんに迷惑をかけていることを理由に、実家で静養することになった。
「美羽、体調が良くなるまで、実家でしっかり体を休めるといい。それがおなかの子のためにもなる」
笑顔で送り出してくれた良平さんのお蔭で、気兼ねなく実家で養生することができた。
実家で生活してから2週間後、悪阻もだいぶ楽になり、体調も以前に比べるとかなり安定した。近所くらいなら歩くことができるようになったので、久しぶりに自宅マンションに帰ってみる。
(この時期は決算期で職場は大忙しなのに、疲れて帰ってからの家事は大変だよね)
良平さんが独身のときの、雑然とした一人暮らしの部屋を思い出しながら、自宅の鍵を開けて中に入る。期間限定で独身でいる良平さんの一人暮らしだから、生活感あふれる荒れ放題のリビングを予想していたのにーー。
「あれ? すごく綺麗に片付いてる……」
悪阻でまともに掃除もできていなかったリビングが、まるでハウスキーパーを頼んだみたいに、とても綺麗になっていた。
(私が帰ってくることだって知らせていないのに、異様ともいえるこの綺麗さはいったい?)
そう思いながらキッチンや洗面所、浴室を見て回った。ゴミはコンビニの弁当を食べた容器があることで、自炊していないのが明白で、キッチンが綺麗な理由がわかったのだけれど。
「洗面所やお風呂場の排水溝、髪の毛が1本もないっていうのも、彼らしくない……」
そう考えているうちに、実家に帰っている最中は、例のメッセージが一通も送られていないことに気づいた。
妙な胸騒ぎを抱えながら、寝室の扉を開ける。ベッドの上も綺麗に布団が敷かれたままで、良平さんが使ったあとがまったく感じられなかった。
(ものを食べた形跡があるんだから、ここに帰ってきてるハズなのに、もしかしてソファで寝ているのかな?)
顎に手を当てながら、身を翻そうとしたときに、スリッパを履いた足がなにかを踏みつけた。なんだろうと疑問に思いながら足を退けて、踏んだ物を確かめる。
「えっ?」
それは使用済みのコンドームの袋だった。慌てて傍にあるゴミ箱を見たけど、中になにも入っていない。
「これって、どういうこと?」
頭の中へと渦巻くように、一気に血が巡っていく。動揺している心とは裏腹に、あるひとつの可能性を探るべく、寝室の隅々まで目を泳がせて、その形跡を探索する。
結局なにも見つけられないまま、布団を無造作に捲りあげた。そして見つけてしまった。枕と敷き布団の間に挟まってる、ミディアムボブの私のものとは思えない、カールのかかった長い髪の毛。
枕の下から摘んだ長い髪の毛を、そのままゴミ箱に捨てて、捲った布団を元に戻す。床に落ちてるコンドームの袋は、あえてそのままにした。
「気持ち悪っ……」
口元を押さえながら寝室から移動し、リビングのソファに座り込む。悪阻とは明らかに違う気持ち悪さが、胸の中を支配した。
ワイドショーなんかでやってる、芸能人の不倫でよく見るシチュエーションーー妻の妊娠中の不倫、相手はドラマで共演している若くて美しい女優。
良平さんはどんな気持ちで、彼女をここで抱いたのかな。彼女もわざわざここまでやって来て、喜んで抱かれたのかな。
「だから実家に帰ってる間、連絡がなかったんだ……」
本人に訊ねる前に、自動的に結論が出てしまったため、疑問に思うことすらできない。自然と涙が頬を伝った。
本当はこの場所に、1秒でもいたくない。愛人と仲睦まじく過ごしたであろうここから一刻も早く出たいのに、足に根が張ったように動かすことができなかった。
愛してる人の裏切りで、私の心に漆黒の重たい膿が溢れ出る。その膿の重さに突き動かされた私はスマホを手に取り、良平さんに手早くメッセージを送った。
『久しぶりにマンションに帰って来ました。体調がいいので、夕飯なにか作って帰ろうと思うんだけど、食べたいものはありませんか?』
送信直後に既読がつき、ちょっとの間の後にスマホが着信を知らせる。瞬時に平静を装った私は口角をあげて、スマホをタップした。
「もしもし!」
『もしもし、美羽? 体調は大丈夫なのか?』
「大丈夫。実家のお世話になったお蔭かな。良平さんも頑張ってるみたいだね」
『えっ?』
「お散歩したついでに、マンションに寄ったんだ。良平さん、一人暮らししてたときは、部屋の中は結構荒れ放題だったのに、私がいなくても綺麗にできるんだなぁって」
弾んだ私の声に、スマホのむこう側で息を飲むのがわかった。
「と、当然だろ。これから父親になるんだから、掃除くらいできるようにならないと……」
(――どんな顔で、今のセリフを言ったんだろう。浮気してるくせに!)
「もう少し実家でお世話になろうかと思ったんだけど、今日マンションに戻って、あらためて考えたの。良平さんの奥さんとして、きちんと頑張らないといけないなって」
あらためて考えたというところにアクセントを置いて、意味深に語りかけた。すると良平さんは間を置かずに返事をする。
「美羽ひとりの体じゃないんだから、無理したらダメだと思う」
所々上擦った声で告げられたせいで、それが彼の本心とは到底思えなかった。
「わかってる。でも戻りたいっていう、私の意見を尊重してほしいな」
これ以上この家で浮気はさせない――させるつもりなんて毛頭なかった。
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