鉄槌

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***  美羽姉が引っ越し先に来る――誰にも邪魔されない空間の中、ふたりきりになることを考えるだけで、心が騒いで落ち着かなくなった。 (それもこれも、一ノ瀬さんが変なことをたくさん言ったせいだ――)  室内はほぼ綺麗に整っているというのに、必要以上に何度も確認する。そして自分の身なりも、鏡の前でチェックするのを忘れない。  寝癖はもちろんないし、服だっていつもの使い古したものじゃなく、美羽姉が某ブランドショップで商品を手に取り、『これが学くんに似合ってる、素敵』と言って、俺の体に当てながら笑いかけた服をチョイスした。 「どこからどう見ても大丈夫。変じゃない、たぶん……」  鏡に映る自分を見ても、イマイチぴんとこない。そんなセンスのなさを呪いつつ、ポケットに入れてるスマホを取り出し、時間の確認をした。美羽姉が来ると言ってから30分近く経っていることに、不安が胸を駆け抜ける。  アバズレたちが住むマンションよりも、美羽姉が住んでる実家のほうが距離が近いというのに、こんなに時間がかかるのはおかしい。途中で買い物するにしても、既に到着していい頃だった。  履歴から美羽姉に連絡しようとスマホの画面に触れながら、玄関の扉を開けた瞬間、「きゃっ」なんていう女の人の声と、なにかがぶつかる音が――! 「ゲッ! 美羽姉ごめん! そこにいるとは思わなくて……」  スマホに気が向いてしまい、扉の外に美羽姉がいるとは思わず、勢いよく開け放ってしまった。扉でぶつけてしまったところを撫でようと右手を伸ばしたら、ちまちま後退って触れられないようにされる。 「私も遅くなってごめんね。いろいろ迷っちゃって……」 「マンション、わかりにくかったか?」  美羽姉に触れかけた右手に拳を作りながらおろして、俯く頭を見続ける。肩を窄めて、立ちつくす姿がそこにあった。 「違うの。ここの場所はすぐにわかったんだけど、コンビニの買い物で目移りしちゃって、時間がかかっちゃったんだ」  ぶつけた額を撫でつつ、遅くなったワケを一生懸命に言う美羽姉の態度が、どこかよそよそしい。なんていうか、見えない壁がある感じ。 「なにかあった?」 「へっ?」 「美羽姉なんか変。なにか隠してるだろ?」  美羽姉が退いた分だけ素早く近づいて、腰を曲げながら顔を覗き込んだ。 「つっ!」  俺と目が合った瞬間の、息を飲んだ美羽姉の顔――髪を短くしたせいで隠しきれない頬の赤みや、潤んだ瞳の理由が全然わからなくて、頭の中で疑問符が浮かぶ。 「美羽姉?」 「こっこれ、引っ越しお疲れ様、受け取って!」  俺との距離を、買い物したもので唐突に盾にされた。まるで顔を見せないように施されるそれに、妙な距離感を覚えながらお礼を口にする。 「あ、ありがと……」 「それじゃあね」  くるりと踵を返して帰っていく美羽姉の細い腕を、慌てて掴んだ。その衝撃で、持っているビニール袋がガサリと大きな音をたてる。 「待ってくれ、話があるから中に入ってほしい」 「学くんとふたりきりになるんだよね……」  振り返らずに呟いたセリフで、美羽姉に思いっきり警戒されているのがわかり、一気に焦燥感が高まった。今までは美羽姉の実家で話をしていたから、逃げ道があったものの、俺が引っ越したことによりそれがなくなって、困惑していることがやっと理解できた。 (旦那さんに無理やり乱暴されたことが、美羽姉の心の深いキズになってることに、早く気がつけよ俺! 女心にどんくさすぎるだろ!) 「指切りげんまん、俺は絶対に美羽姉に変なことしない。もししたら針千本飲んでやる!」  キッパリと言いきって掴んでいた腕を放し、美羽姉の前に小指を差し出す。振り返った彼女はそれと俺の顔を見てから、細くて短い小指を絡めた。  指切りげんまんしたことで安心したのか、俺に導かれて室内にすんなりと入ってくれた美羽姉。その顔色は相変わらず赤いままで、いつもと違うその様子に、首を捻るしかなかった。
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