鉄槌

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「ま、学くんが思ってるよりは大丈夫だよ。ホントに……」 「体調が悪いのに根を詰めすぎて、熱があるとかじゃないよな?」 「無理したら煩い幼なじみに叱られるから、きちんとコントロールしてます」  言いながらアイスノンを両手で押さえると、大きな手が離れていく。 「それならいいけどさ……」  私の目の前でどこか寂しげな笑みを浮かべて、そそくさとキッチンに戻った学くんの背中を、なんとはなしに見送った。小さかった彼の背中が意外と大きいことに、今さらながら確認させられる。 「出逢ったときは、私が学くんの盾になっていたのにね……」  病院で良平さんに蹴られた学くんが、咄嗟に私を抱きしめながら倒れたことを思い出した。モノクロの中の彼は私よりも小さくて、手を引いて歩いていたハズなのに。 「なんか言ったか?」 「ううん。それよりも話ってなに?」  学くんはコーヒーの入ったマグカップを手にやって来て、ローテーブル越しに座ってから、目の前にカップを静かに置く。私はおでこに当てていたアイスノンを下ろし、手持ち無沙汰に握りしめた。 「美羽姉が考えた作戦よりも、確実にアバズレを落とす方法を先輩が考えてくれたんだ」 「確実に?」  信じられないそのセリフに、いつもより声が高くなった。 「そう。その先輩、一ノ瀬さんって言うんだけど、百発百中のすごい人でさ」 「百発百中……」  意味深な短い言葉が衝撃的で私が言い淀むと、学くんは目を瞬かせながらキョトンとした。 「あ、他人に勝手に相談して悪かったな。絶対に成功したくて」 「百発百中って、その……えっとアレだよね」  俯きながらモゴモゴ呟くと、学くんはやっと意味を理解したのか、「あーっ、なっ、ごめん、本人が豪語してたから使っただけ!」と、上擦った声で返事をする。  部屋の中に変な空気が漂い、赤ら顔の私たちを包み込んだ。それでもそれを打破しなければと、思いきって口火を切る。 「ま、学くんの負担が少ないほうを選んでほしいかな。ホントはやめてほしいんだけど……」  上目遣いで学くんの顔を窺うと、ちょっとだけ唇を尖らせて、咎めるような目つきで見つめ返された。 「俺がやめたら、美羽姉が危ないヤツに手を伸ばすだろ。絶対やめないぞ」 「学くん……」 「美羽姉が望むのなら、俺は悪魔にだってなってやる。それで美羽姉の中にある憂いが晴れるんだったら、喜んでなってやるよ」  美佐子おばさんが言ったように、私を想って暴走するかもしれない学くんは、喜びを顔にみなぎらせる。 (どんな気持ちで、今のセリフを言ったの? 悪魔になったって、私が学くんを好きになることが、確定しているわけじゃないのに) 「学くんは悪魔になっちゃ駄目だよ。醜いのは私ひとりで充分……」  言いながら、アイスノンをぎゅっと握りしめた。冷たさがてのひらいっぱいに広がり、手から腕に、そして体も次第に冷えていく。 「美羽姉は醜くない。ただ傷ついてるだけだ」 「…………」 「美羽姉が手がけてる準備、どうなってる?」  私から視線を外した学くんは、マグカップを手に取りながら問いかけた。きっと直視できないくらいに、酷い顔をしているのかもしれない。 「会社でお世話になった部長にアポがとれて、明後日逢うことになってる。人事部の方も、一緒に話を聞いてくれることになってるんだけど」 「うん?」 「ちょうど私に、聞きたいことがあるって言われたの。お互いタイミングがよかったですねって言われて」  上司がわざわざ私に逢いたいなんていうことで、もしかしたら良平さんは、社内でなにか問題を起こしている可能性があるなと思った。 「俺はアバズレの生活パターンを読んで、明日天気が良ければ、そこにある公園で接触する予定」  落ち着いた声で言いながら、窓の外を親指で差した。 「そう。一ノ瀬さんの作戦、教えてもらえるかな?」  こうして私たちはそれぞれの役割をきちんと情報交換したあと、綿密な打ち合わせをしてから別れた。作戦がはじまったら、おいそれとは顔を突き合わせることができなくなる。  そう思うと離れがたくなってしまい、学くんのマンションから帰ることに苦労したのだった。
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