3476人が本棚に入れています
本棚に追加
/110ページ
「春菜さんが濡れないように、傘を貸しますよ。僕の家、ここから近くなんです」
翼くんの自宅を知るチャンスだと思った。
「一緒に行ってもいいかな?」
降り出しかけた雨粒が、どんどん大きくなってきた。
「構いません。濡れた体を拭くためのタオルも差しあげます」
走り出した翼くんのあとについて行く形で、彼の自宅マンションに到着。着ているワンピはしっとり湿ってしまい、かわいらしさのない、ムダに重たい衣装に成り果てた。
「春菜さん、ちょっとだけ待っててください」
翼くんは春菜を玄関に入れてくれることもなく、目の前で扉を閉めた。『中に入れて、寒いの』作戦をする間もなかった。
(チッ、結構手強いわね。素っ気なさは、付き合う前の良平きゅん以上だわ)
どうしたら中に入ることができるか――アレコレ思考を巡らせていると、不意に扉が大きく開いた。
「お待たせしました。これ、粗品でもらったタオルです。それとビニール傘をどうぞ」
「あ、ありがとうね……」
テキパキ手渡されてしまい、両手でそれを受け取るのが精いっぱいだった。
「春菜さんにプレゼントしますので、返さなくていいです。それじゃ!」
言いながら翼くんが扉を閉めようとしたので、慌てて隙間に足を挟み込んだ。ガンッという大きな音が辺りに響き渡る。
「春菜さん、大丈夫ですか?」
「ぁ、ああの! ご、ごめんね、もっと話がしたくて……」
上目遣いで奥に見え隠れする、翼くんチの室内に視線を飛ばす。
「すみません。僕も話がしたかったんですが、仕事が入ってしまったんです」
至極残念そうな顔で、翼くんは持っているスマホを見せてくれた。それは思いっきり通話中で、『N・Ichinose』という人がかけてきたのがわかったんだけど、本当にタイミングが悪い。
「翼くん本当にごめんね、ワガママを言って……」
「すみません。一ノ瀬さんが春菜さんと喋りたいそうです」
翼くんは耳にスマホを当てたあとに、私の顔を申し訳なさそうに見つめる。なぜだか私と話がしたいという一ノ瀬さんと、喋ることになってしまった。
『もしもし、白鳥の同僚で一ノ瀬と言います。無愛想なコイツと仲良くしてくれて、ありがとうございます』
スピーカーにしたスマホから、適度に低い男性の声が聞こえてきた。声の感じで、30代以上なのがわかる。
「お仕事なのに、彼を引き止めてしまってごめんなさい!」
『こっちこそ済まないね。お詫びに白鳥に奢ってもらったら?』
「春菜さん、いつか奢らせてください」
心底済まなそうに告げた翼くん。ここはワガママを繰り出す場面だと瞬間的に思いつき、大胆なことを口にする。
「だったら、翼くんの家でなにか食べたいな!」
『白鳥、彼女以外の女性を自宅にあげるなら、きちんと両方の許可をとれよ?』
一ノ瀬さんのセリフで、翼くんに彼女がいることがわかってしまった。
「翼くん、彼女……いるんだ?」
「ええ、まぁ」
私の視線を避けるように、切なげな瞳がなにもない空虚を見つめる。
(翼くんにこんな顔をさせる彼女って、どんなコなんだろ……)
『こんなイケメン、放っておく女はいないだろ。いないほうがおかしいって思うけど』
スマホのむこう側でカラカラ笑う一ノ瀬さんの声が、私の耳に入らない。翼くんに彼女がいると知った瞬間から、頭の中にあるスイッチが入った。誰かのモノを奪いたい欲が、沸々と湧きあがる。
『とにかく、お互い相手の了承を得たのちに、次回の逢瀬を決めろよな。白鳥、仕事急げよ!』
翼くんを急かすように一ノ瀬さんは告げて、プツリと通話が切られてしまった。
「春菜さんの旦那さんの許可がおりたら、是非ウチでご馳走させてください」
翼くんは私を見ずに、スマホの画面を見ながら誘う。
「翼くんの彼女もでしょ?」
「僕の彼女は優しい人なので、きっと許可してくれると思います。というか、たった今ラインで聞いてみたら、あっさり許可がとれました」
小首を傾げてニッコリほほ笑む。彼女とのラインが、余程嬉しかったのだろう。翼くんの顔に、喜びが溢れてるように感じられた。
「彼女に聞いてくれたんだ、行動早いね」
「春菜さんもきちんと旦那さんの許可をとってから、僕に連絡ください。美味しいケーキを買っておきます」
「わかった。楽しみにしてるね」
いただいたタオルを掲げてバイバイしたら、あっさり扉が閉められ、鍵がかけられる。仕事に行く準備をしているのか、バタバタした音が漏れ聞こえた。
「翼くんの家がわかっただけでもいいか。今日も短かったな……」
名残惜しい気持ちが、歩幅になって表れる。振り返らずにまっすぐ自宅に向けて、雨の中をゆっくり歩いたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!