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■プロローグ
―――バチーン!
手が熱く痺れてから、私はとんでもないことに気がつき大きく目を見開いた。
(あ、ついにやってしまった……)
恐る恐る視線を落とすと、見慣れた禿げ頭――『小野寺虹色クリニック』院長が椅子から転げ落ち、呆然とした顔でこちらを見上げている。
「みみみ箕輪君! 君は今、私に何を」
「すみません。あの、でも本当に本当に辞めてほしいんです。こういうこと」
声を振り絞りなんとか伝えると、目の前の色白な顔はカーッと真っ赤に染まっていく。
「君っていうやつは! 傷害罪で訴えてやる!」
立ち上がった院長は、勢いよく私の肩を掴みまくし立ててきた。
「今の凄い音、何!?」
ちょうどいいタイミングで扉が開き、副院長の洋平さんが、焦った顔で私と院長を引き剝がしてくれる。
「朱莉さん、また父さんがやっちゃったんだね……! 本当にごめん」
「いえ、私もついに手が出てしまって。おあいこですし、クビにして下さって結構ですから」
「そんなこと言わないで! 僕が何とかしておくから、今日は帰って。ね?
だって君も、いきなり仕事がなくなったら困るでしょう」
(はぁ……ここで『いいえ、全然!』なんて言えたらカッコイイんだけど)
私は洋平さんに深々とお辞儀をし、激昂している院長の顔を見ずにそっと扉を閉める。
廊下を出てすぐの場所にある姿見を前に、私は思わず立ち止まった。
(綺麗なお母さんでいたいのになぁ)
肩にかかるパサついた黒髪、横長の大きめな瞳の下にはくっきりと隈が刻まれ、細い鼻と薄い唇が相まって年齢より老けて見える。
三十一歳――きっと老いが迫ってくる年頃なんだろう。
目まぐるしく過ぎていく日々に、自分の顔や体に気を遣っている暇なんてない。
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