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第一章 公正中立Jの妻の条件
私の中の彼のイメージは、いつも穏やかで冷静で真面目そのもの。まさに品行方正を体現したような人で、それは出会った頃から変わらない。
けれど今、私を見下ろしている彼の瞳はかつてないほどに揺らめいて、熱のこもった視線に息さえ止めそうになる。まるで知らない人みたい。
「千紗」
低い声で名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。彼の長い指が私の頬を撫で、顔の輪郭に沿わされながらゆるやかに首筋に這わされる。
瞬間的に背中がぞくりと震え、鳥肌が立った。初めての感覚になんだか泣きそうだ。
でもここで涙を見せたら、大知さんはきっと止める気がする。優しくて、いつも私を思いやってくれるから。
ぎゅっと目をつむって堪えていると、瞼にそっと口づけられた。驚きで目を開けるとすぐそばに彼の顔があり、至近距離で視線が交わる。
「ちゃんと俺を見て」
そう告げる大知さんの表情はどこか切なげで、まずいことをしたのかと不安になる。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
経験のない自分が恨めしい。つい目が泳ぐ。
そのとき唇が重ねられ、私の意識はすべて彼にもっていかれた。
「実感してほしいんだ。誰に抱かれるのか……誰のものなのか。俺が結婚したのは千紗だよ」
知っている、わかっている。本当はあなたが私と結婚する予定じゃなかったのも。
訴えかけてくるような真剣な声色に、我慢している涙が視界を滲ませていく。彼の願いを聞き入れられず、これではますます失望されてしまう。
大知さんからうかがうように顔を近づけられ、私は目を閉じて彼の口づけを受け入れた。どこまでも深く、蕩けそうなキスだ。
その間に、大きい手のひらが私の肌を撫で、甘い痺れを引き起こす。
「んっ……んん」
「千紗」
熱い吐息まじりに囁かれた名前は、他のだれでもない私のものだ。
『千っていう字は人が前に進む様子を表したとも言われるんだ。数を表すだけじゃない』
そんなふうに言ってくれたのは彼が初めてだった。言った本人はたぶん覚えていないだろうけれど。
大好きな人に初めて抱かれるのに、嬉しさよりもやるせなさで胸が詰まりそうだった。
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