手首

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 人って結構忘れっぽい生き物だと僕は思っている。少なくとも僕は忘れっぽい方だ。  友人に「小3の時、あんな事あったよな〜」なんて話題を振られても思い出せないし、それは中学も高校も変わらない。つい最近卒業した専門学校の記憶すらあやふやだ。  馬鹿だから忘れっぽいのだと、僕はずっと思っているし、これからもその考えは変わらないだろう。  ところで話は変わるが、僕にはうつ病の母がいる。パチンカスのクソ親父を抱えながらも必死にパートで稼ぎ、育児をし、僕が3歳の時に離婚、そしてうつ病を患った。最終的には生活保護を受けるようになった。  母は素晴らしい人だ。夫選びは失敗したが、元来、一匹狼な性分に竹を割ったような性格、そして行動力の凄まじい人間だった。そんな母が僕をたいそう可愛がり、二級という重い病状を抱えて必死に育ててくれたことは、まさに愛情の一言に尽きるだろう。  だが当時の僕は幼く、そして哀れなほど馬鹿だったので、うつ病に苦しむ母の気持ちを理解することはできなかった。でも出来るだけ文句は言わないようにしていたと思う。例えば夕食がずっとレトルトカレーでも、遠足のお弁当が手作りではなくスーパーの弁当だったとしても、お金がなく制服を買えなくて、一人だけ学校に寄付された周りの生徒と違う色のシャツを着させられても。  たまには文句も言った。『僕もみんなと同じものが欲しい!』と。だが大抵の家の親はこう言う。『よそはよそ、うちはうち』。僕の母も言った。僕は馬鹿なので、開戦5秒で負けた。  そんな母だが、彼女は僕が小学校の頃、よく自殺をしようとした。定番だったのは、僕を布団に放り込んでから『じゃあ死んでくるね』と家を出て外を徘徊する行為だ。僕は眠らずに待つ。1時間、2時間、しばらくすると母は帰ってくる。『僕を一人にすると可哀想だから』と言って。僕は母が帰ってきて初めて、ようやく眠りにつく。  トラックの前に飛び出そうとしたこともあった。『ちょっと車に轢かれて死んでくるね』と言って靴を履くのだ。僕もついて行く。そして大通りで、出来るだけ即死させてくれそうなトラックを厳選する母の手を、ぎゅっと握りしめる。しばらくすると母は諦めて帰宅する。『僕が手を握っているせいで、トラックに飛び込んだら巻き込んでしまう』と文句を垂れて。  友人の家に遊びに行っている時に、電話をかけてきて『夕飯は作ってあるから。ママは死ぬね』と言ってきたこともあった。僕は家に帰った。ちゃぶ台には鰻丼が置いてあり、母の姿はどこにもない。僕は泣きながら一人で鰻丼を食べる。そして食べ終わるとリビングでぼんやりと座り続ける。しばらくすると母は帰ってきた。『僕がいるから死ねない』と。  母は僕を愛しているが、同時に母にとって僕は邪魔な存在だったはずだ。僕がいるせいで自殺できないのだ。だから僕は、僕という存在に感謝していたと思う。僕は母が好きだったので、彼女に死んで欲しくはなかったから。  そんなある日、母が珍しく昼間から風呂に入っていた。母はうつ病になってから風呂が苦手になり、そのせいで1週間に一度くらいしか風呂に入らない。母が入らないので僕も入らない。汚い小学3年生だった当時の僕は、久々の母との入浴に喜んで服を脱ぎ、浴室に入った。  そこは血の海だった。  母は服を着たまま浴槽に座り込み、手首を切っていた。お湯を流して血が固まるのを阻止しながら、何度も、何度も、剃刀で手首を切っていた。浴槽は先に流出したドス黒い血と、新たに流出した鮮血で彩られていた。まあ真っ赤だった。  僕はポカンと母を見た。母も僕を見た。『邪魔しないで、出て行って』。そう言われたので僕は浴室から出て服を着た。そして浴室の前で三角座りをして、ぼーっとしていた。  当時の僕は本当に馬鹿だった。普通ならここで警察に通報するとか、救急車を呼ぶとか、近所に助けを求めるとか、そういった行動をしただろう。しかし僕は母に叱られるのが怖かったので、何もしなかった。  子どもにとって親は全てだ。そして母は怒ると怖いのだ。頭を叩いてくる。僕は怒られたくなかった。そして救いようがなく馬鹿だった。  しばらくすると、チャイムが鳴った。僕は家のドアを開ける。そこにいたのは母の弟さんだった。 『姉ちゃんいる?』  弟さんは聞いてきた。僕は『いるよ、手首切ってる』と答えた。そこからはまあ早い。すぐに弟さんが救急車と警察を呼び、風呂場から母を引き摺り出した。母は『邪魔しないで!』とひどく抵抗していたが、大人の男の力、そして警察と救急隊員に勝てるはずもなく、僕もろとも病院に運び込まれた。  僕はなぜタイミングよく弟さんがきたのか分からなかったので、弟さんに尋ねた。弟さんは答えてくれた。『姉ちゃんから、今から死にます、って電話が来た』。──母も馬鹿だった。  小学校の間に2、3度リストカット事件は起こった。しかし母は毎回必ず誰かに『死にます』と伝えてから実行するので、リストカットは阻止され続けた。僕は一度も阻止していない。母が『邪魔しないで』と怒るから。  うつ病が軽くなった今でこそ、僕と母の間では笑い話として酒の肴に出てくるが、当時は笑い事ではなかった。そして今でこそ蓄えた知識や経験で気付くこともある。  例えば手首を切った程度で人は簡単に死なないとか。例えば小学生や中学生は、己の心情を何も口に出さない、とか。  あくる日突然自殺して、『実はいじめられていました』なんて事実が発覚する。  なぜなら僕もいじめられていたことがあったし、それを大人になってから初めて、母に報告したのだから。ちなみに僕の友達もいじめられていた。僕よりもひどいいじめを受けていた。でも、その子も親に言わなかった。その子は現在、恋人持ちで素敵な人生を満喫している。  母は言った。『なんでいじめられている時に言ってくれなかったの』。  僕は答えた。『なんでだろうね』  世の親たちは子どもの些細な変化を見逃さないで欲しい。子どもはわがままを言う生き物だが、大切なことはほとんど口に出さないのだ。そして忘れないで欲しい。子どもは大人と違って心も経験も未熟な、ひ弱な馬鹿だということを。保護対象だということを。  笑い話になったリストカットの話に戻る。  僕は日本でも1、2を争えるレベルの、類稀なる馬鹿だ。そんな僕は時々、母の手首を見る。  リストカットの傷痕が残った手首。小学校の頃はくっきりとあったそれは、時を経るごとに薄くなり、今では意識して見ないと気づかないレベルまで薄まってしまった。  こうして、過去の惨事や苦しみは薄れ、次第に忘れ去られて行くのだろう。再三言うが、僕は馬鹿だ。ついこの間の出来事も忘れてしまう馬鹿だ。  けれど、この先母の手首から傷痕が完全に消えたとしても、僕は彼女がリストカットするほど追い詰められていた事実を、決して忘れない。
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