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映画館から出た私達は、映画館を併設するショッピングモールをあとにして数百メートル先の古い喫茶店に入った。わざわざここまで足を運ぶのは、この喫茶店が静かで居心地がいいからだった。そしていつも通り、私達はアイスティーを二つ注文した。テーブルに置かれたアイスティーのグラスが、氷を揺らしてカランと音を立てた。グラスの表面には、冷たい水滴がついていた。
「泣けたよね、今日の映画」
シズはそう言いながら笑った。泣いていたのは本当で、映画館を出る時はメソメソしていた癖に、今はもうヘラヘラしている。いつもはすぐに話題をコロコロと変えるのに、今日のシズは映画の話を一時間も続けた。シズはファンタジーが好きらしい。
「あのお話、実際にある外国の伝承がもとになっているんだよね。どこの国だったかな」
私はファンタジーには特に興味を持っていないが、今日の映画はそれなりに楽しめた。魔女の呪いによって、国中の人々がその姿を鏡に映せなくなるお話。呪いを解くまでの数百年間、人々は己の姿を目にする事なく一生を終えていくが、やがて一人の勇者が立ち上がり、苦節を経て魔女を倒して鏡に映る自分を取り戻してハッピーエンド、といった内容だった。鏡に姿が見えない人々の妙な主観性の欠如が表現されていて感心した。
「私だったら、鏡に自分の姿が映らないなんて耐えられないよ」
「そうだろうね。シズはお洒落大好きだもんね。私は鏡に自分が映らなくても、そんなに困らないかな」
「ミナは美人だからそう言えるんだよ。私みたいに濃いメイクしなくていいのが羨ましい。私の周りだとミナだけだよ、メイクに殆ど時間かけない人。ミナだったら、あの映画の国の住人になれるね」
シズは意地悪く笑ったが、私は実際にそうなっても困らない気がした。魔女は怖いけど。映画の話に満足したシズは、メイクを直しに行った。
自分を知る方法など、いくらでもある。知りたくなくても、周りに教えられる。私の容姿。私の性格。私の地位。幸い、他人にとって私は容姿が良いみたいだから、その事で悩む事はあまりない。社交性が皆無なので、友達は少ないのだけど。人は鏡、とはよく言ったものだ。シズを見る度に私は自分の価値観を認識する。シズはいつも笑顔で、好きなものを好きだと語る。嫌いなものは嫌いだと、ちゃんと言える。そんなシズを羨ましく思う。
私はシズのようになりたいと思っている。一方でシズは、私の容姿を褒めてくれるし、ただ寡黙なだけの私を立ち振る舞いが上品で素敵だとも言ってくれる。多分、本心で言ってくれていると思う。この辺の私達の価値観は真逆である。そういう風にして、自分の事が分かるのだ。
席に一人残された私は、空になりかけているアイスティーのグラスについた水滴を指先で掬い取って、目の前に寄せた。水滴には、本来なら私の顔が映る筈だ。魚眼レンズで覗いたように、丸く伸びて、反転した顔。その不思議な光の屈折を、自分の顔で確かめた事はない。生まれた時から鏡に姿が映らない私は、この水滴にも映らない。
鏡が無くても生きていけるのだ。メイクだって、覚えたての頃は大変だったが今は何も見ずに感覚でできる。あの伝承は異国のものらしいが、どのように巡り巡ったのか、私のように今も呪われている人間がいるのだ。
肩を叩かれた。振り向くと、メイクを直してご機嫌のシズが立っていた。私は指先をペーパーナプキンで拭いて席を立った。
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