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Ω
……ある。
いや、いるというべきか。
あるといい、いるといい、その存在をあなたは感じないか。触れることもできず、象ることすらできないそれを。
だが、やはりそれは在るのだ。
ハリケーンや地震や津波のように現実に猛威を振るい、人の欲望のように果てる底なしに貪婪に。
それが着実に、この世界に侵食しつつある。
純白の布に落とされた、一滴の血の染みのように。
ゆっくりと、しかし確実に。
それはこの世界に姿を現そうとしている。
†
「マリア、大丈夫?」
優しく慈愛に満ちた声で、マリアは我に返った。
拡散していた意識が、すうっ、とまとまって、グレーの修道服に白いウィンプルで髪を覆った老女が、目に映る。
「シスター……」
教室内で座っているのは、マリアだけだった。一日の最後の授業も終わって、同級生たちはみな、待ちかねたように帰り支度をしている。
ひそひそ、くすくす。あくまで慎みを保ちながらも、少女たちの目は輝き、口元には笑みがこぼれている。会話はすべてスペイン語。白人もカラードも混血もいる。そんな区別は、この国ではあまり意味がない。
「気分がすぐれませんか?」
シスター・アガサが心配そうにのぞき込む。
彼女が気がかりなのは、体調のことばかりではないだろう。半月前に転校してきた白人の少女が、いまだに親しく話す相手もいない様子に、心を痛めているのだ。
「ええ……。いえ、大丈夫です。ちょっと考えごとをしてしまって」
ぴょこん、と立ち上がってマリアはぎこちなく微笑んだ。シスターの優しさに、本当のことを言えない、後ろめたさがつのった。
マリアはノートや筆記用具をしまうと、お辞儀をして、そそくさと教室を後にした。
二階建ての学校の階段を下りて校舎から出ると、とたんに、湿気を帯びた空気と行き交う自動車の喧噪が押し寄せてきた。学校の敷地は、林立するビルの谷間にあって、井戸の底のようにも感じられる。
南米ベネズエラーー。
北はカリブ海に面し、南の内陸には広大なギアナ高地という大自然を持つこの国は、世界有数の産油国でもある。
石油資源によっていち早く近代化に成功したため、他の南米諸国とはちがって、首都カラカスは、高層ビル群のあいだを広い道路がぬう大都会だ。
そのカラカスの東部、旧市街セントロと新市街サバナ・グランデの境目あたりに、この高校はある。国民の九五%がカトリックのベネズエラで、教会が営む学校はめずらしくない。
マリアは、車通りに面した校門には向かわず、敷地の奥へと歩いていった。
途中、すれ違ったシスターたちに律儀に頭を下げる。
すぐに、校内に付設された小聖堂が見えてきた。
小聖堂は、ごく簡素な造りだった。
ふたクラスも入ればいっぱいになる広さで、両開きの扉口から祭壇までまっすぐに身廊がのび、左右に駅のベンチに似た木造の会衆席が並んでいる。
厳かな気持ちになるとマリアは、内陣に向かってゆっくりと歩いていく。
正面奥の壁に磔刑像のある十字架、右脇の祭壇には大理石で彫られた聖母マリア像があった。マリアは聖母像の前にひざまづくと、頭を垂れて祈りを捧げた。
さっきの、イヤな感じはなんだったんだろう。マリアの意識を一瞬にして連れ去ったその感覚は、思い返せば明確に、不吉な気配をまとっていた……。
目を開いて、聖母像を見上げたマリアは、息をのんだ。
「ああ、まさか、そんな……」
内心そうではないか、と恐れていた光景がそこにあった。
乳白色の聖母像、その伏し目がちの両方のまなこから、ふた筋、涙が流れ出していたのだ。
血の涙が。
あまりの出来事に、マリアはひざまずいたまま、呆然と固まった。おお、主よ。イエス・キリストよ……。
しかし、いつまでも狼狽はしていられない。マリアはこれを確認するために、この学校にやってきたのだ。
立ち上がると、気を取り直して、つぶやく。
「……バラバ。バラバ。いるんでしょ?」
振り返った。
入り口近くの席だった。
少女の呼びかけに応じた、というのでもないだろう。いつの間にか、手品のような鮮やかさで、会衆席に人影が現れていた。
その人影ーー少女は、あまり上品とはいえない格好の持ち主だった。第一、敬虔なカトリック信者なら憤飯ものの姿勢だ。両肘を左右の背もたれに広げてふんぞり返り、だらしなく組んだ脚を、前の席の背もたれに乗せている。
ウェーブのかかった黒髪には、牧童のような革の帽子を目深にかぶっている。
上半身は肌も露わなビキニスタイルに黒い革のジャケット姿。下は同じく黒革のタイトなミニスカートだ。肉感的な太股がのぞき、足元は拍車の付いた黒いブーツだ。
その少女が、真っ赤な口紅の右の口角を、つり上げて笑い、サングラスをはずした。
もしこのとき、マリアの同級生が同席していたら、あまりの出来事に息をのんだだろう。少女のぱっちりとした目元と整った鼻筋は、マリアに瓜二つだった。
マリアが口を開いた。
「その時が来たわ」
「おう、さね」
バラバは乱暴に返事をして、ジャケットの内側から、葉巻を取り出した。
「あーっ!! こらっ!!」
マッチを擦った火を、マリアは猛然とダッシュして消した。
「あっ、なにすんだよ!」
「それはこっちのセリフ!!」
葉巻も、バラバの口元からむしりとった。そしてその場で聖母像にひざまづくと、祈りの言葉を素早く唱える。
「マリア様、この罪深きあわれな仔羊をお許しください……」
「けっ、マリア様がマリア様におがんでら」
かちん、ときた。
すっと立ち上がると、怒りで、自分の両肩が震えているのがわかった。
「バ~~ラ~~バ~~」
そのトーンにギョッとなって、バラバも脚をおろして立ち上がる。
「な、なんだよ!! 変な声だすなよ!!」
両手をつきだして、じりじりと後退しながら、バラバは必死に話題を変える。
「そ、そんなことより、いいのか、御徴が現れたんだぞ」
目をつり上げていたマリアの歩みが止まった。話を逸らそうとしているのは、丸わかりだが、バラバの指摘にも一理ある。ことは一刻をあらそう。こんな風にじゃれている場合ではないのだ。
むううううう、とバラバを睨みつけつつ、深呼吸を繰り返した。
「……確かにその通りだわ。可及的速やかに猊下にお伝えしなければ」
振り返り、再び聖母像を仰ぎみる。
穏やかなはずの聖母の顔が、まがまがしく血塗られていた。
卍
山の中、だったと思う。
もちろん本当のところは定かではない。むかしむかしの、八咫坊の一番初めの記憶だ。
世界はひどく暗かった。
が、ぼんやりとした視界の先の先に、か細い光の粒がばらまかれていた。
おそらく仰向けに寝かされて、夜空を見上げていたのではないか。
辺りになんともいえない、芳しい匂いが立ちこめていた。
いま考えると、森の木々が放つ精気のように思える。
いや。
その匂いを覚えているから、森の中だと感じたのかもしれない。
ともかく。
その瞬間から、八咫坊という存在は始まったのだ。
***
暗い部屋の中で、座した二人の男が対峙している。
間隔を空けて置かれた二本の燭台だけが、かろうじて二人の姿を闇の襞から見え隠れさせている。
山形県の寒河江市と村山市にまたがる葉山は、中世の一時期には出羽三山の一角をなしていたが、現代では気軽に登山を楽しめる山として、人びとに親しまれている。
岩野登山口を入って進むと、かつて葉山修験の中心だった寺院、葉山大円院の跡がある。礎石が残るばかりのその跡地を逸れた森の中に、人知れず佇む宿坊があった。
山中のそこだけブナの原生林が切り払われ、ぽっかりと拓けていた。敷地の入口に、神社の鳥居に似た、木を組んで作られた門があり、その横には大きな石灯籠がそびえている。門の奥に、うずくまるように平屋の建物が横たわっている。間口が七間(12.726m)、奥行きは五間半(10.01m)ほどもある建屋だのに、そこが登山客の目にふれることはない。呪法による道場結界が働いているからである。
密かに営まれる宿坊の中央部分、須弥壇のある部屋に、男たちはいた。
一人はかなりの巨漢だった。年の頃は三十といったところだろうか、きれいに剃髪した頭に、動きやすさ重視の上着。ワイドなシルエットのパンツ姿で、無造作に胡座をかいている。
顔立ちは、よく見ればハンサムと言えないこともない。眉はキリリと上がり、鼻筋が綺麗に通っていて、眼の光が印象的だった。ただし単純に好男子といえないのは、左の耳から頬にかけて、大きな引き攣れがあるからだ。その傷痕が、元々男性的な相貌に、さらにある種の凄みをつけ加えている。
いま一人の男は、いささかくたびれた背広にネクタイ姿で、これといった特徴のない、五十年輩の会社員に見えた。しかし深閑とした叢林の中とあっては、作られた凡庸さがかえって不気味な雰囲気を際立たせてしまっている。
男たちが座している床は艶々とした板張で、壁もまた年季の入った板壁だ。
部屋がどれほどの広さを持っているのかは分からない。乏しい光は、申し訳程度ですぐに闇の領域に溶け込んでしまう。わずかに太い木の梁があることが分かるだけだ。どこからか吹き込んだ隙間風が、炎を揺らした。じじじ、と灯心が音を立てた。
「これが前回の報酬になります。やたーー玄真様」
背広の男が分厚い封筒を床に置いて、巨漢へと差し出した。
「八咫坊でいい」
巨漢が、低いがよく通る声で答えた。
それは裏の世界での彼の通り名だった。験比べーーつまり、修行を終えた修験者が呪力を競い合う儀式で、圧倒的な実力をみせたときについた名だ。実際、僧名のような抹香くさい〈玄真〉よりも、よほど自分に馴染んでいる。巨漢ーー八咫坊は封筒をつかむと、無造作に懐へねじ込んだ。
こほん、と咳払いをしてから、背広は続けた。
「それと、次の玄真様へのご下命ですが……」
「話があるなら本人が出てきたらどうだ」
八咫坊が短く言った。
空気が固まった。
背広が絶句した。
ほ、ほ、ほ、と暗闇のどこかから、愉快そうな笑い声が響いた。ゆらり、と闇の密度が変化し凝り固まったーーようだった。暗がりから人影が進み出てきた。
「いささか無礼であったかな。のう、村上」
はっ、と背広の男ーー村上が平伏した。
立っていたのは、恐ろしく小柄な老人だった。禿頭。老僧に見えるが、衣は白い。老人は滑るように近づくと、二人の間に座った。
「おぬしのその験力ーー衆生のために役立ててみてはくれんか」
けっ、と八咫坊は立ち上がり、唾した。
「どうせまた、金持ちどもの尻拭いだろう」
村上が咳払いをした。老人は問題ないと言うように、片手をヒラヒラとひらめかせた。炎が揺れ、壁の影が伸び縮みする。老人は頓着せずに話を続ける。
「宿耀にーー大きな影が現れたのじゃ」
「古臭い星占いで何が分かる」
八咫坊はせせら笑った。
宿曜は、弘法大師空海が唐からもたらした占星術だ。インド占星術をベースに、唐で道教の天体神信仰や陰陽五行説が習合したものと言われる。
「そう、分かってしまったのじゃよ。残念ながら……な」
老人が、ため息とともに吐き出した。
「どうした。地獄の鬼も恐れる裏検校、玄海権大僧都ともあろうお方が」
老人が、裏の世界で名を知られているのは、相応の仕事をこなしてきたからだ。もちろん自らの手を汚したことも数知れない。だが挑発的な科白にも、老人は乗ってこなかった。
「何と言われようと構わん。だが此度の仕事ばかりは、やり遂げて貰わねばならんのじゃ」
玄海が身振りで、村上を下がらせた。村上は、闇に溶けるように消えた。
完全に村上の気配がなくなるまで、玄海は待った。
「さてーー」
あらためて座りなおしたとき、玄海の話しぶりは、だいぶくだけたものになっていた。
「どうかの、最近は?」
「そんな大雑把な質問に答えられるか」
盛大に鼻を鳴らした。
認めたくないことだが、八咫坊もまた、堅い気持ちが、ゆるゆるとほどけていることに気づいていた。
玄海は、八咫坊の修行の師であり、親代わりであり、同時に命の恩人でもあった。
八咫坊には過去の記憶がない。正確には、三年前からの記憶しかないのだ。三年前、とある山の中で怪我をし、倒れていた八咫坊を発見したのは玄海だった。
玄真という名を与えたのも。
食べ物と着る物と寝床を与えたのも。
怪我で動かなくなっていた身体を戻したのも。
言葉を失っていた八咫坊に、言葉を蘇らせたのも。
厳しい修行を共にさせ、験力を身に付けさせたのも。
これらすべて玄海であり、玄海こそが八咫坊の、たった三年の、人生そのものであった。
「まあ、そういうなて。からだが息災であれば、ええ」
まるで本物の息子を見るような慈しみが感じられ、八咫坊は居心地が悪くなった。
「で、なんだ」
「なんだとはなんじゃい? 心配したってるんやぞ」
「本当のところはなにが言いたい」
やれやれ、といった風に肩をすくめると、玄海は切り出した。
「勘がええのも困りものや。少々厄介なことがあっての。ーー『不空羂索神咒秘経』が、ヤマからなくなった」
ヤマとは、この存在しないはず宿坊を営む宗派の本山である。表向きは天台宗の分派の分派ーーという寺院だった。
「……」
「知っての通り、ヤマのあれは、梵語原典から直接、阿比留草文字で写された門外不出の文書。お主ーー」
ずい、と玄海が顔を出す。
「なにか心当たりはありゃせんか?」
「知らんね」
少し答えが早すぎたかもしれない。八咫坊は目をそらさずに、玄海を見つめ返した。内心の、嵐のような動揺を押し隠して。
玄海の瞳が、闇に煌めく。
「そうか……ならばいい。この件、他言無用。くれぐれも秘事とせえよ」
急に歳を取ってしまったように、玄海が小さくため息をついた。
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