【ワンライ】安息日

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「街には、音が多すぎると思わないか」  同僚は、会社を辞める直前に、ぼくへそう言った。  どうした思春期か? と、そのときは茶化してしまったが、分厚い土を踏みしめる今は、彼のその言葉がよく分かる。  繁華街はもちろん、休日のオフィス街でさえ車の走行音が近く遠く、常に聞こえる。それを意識しないほどに、常に、だ。  雑音が途切れることがない。街では終始音に囲まれる。  だというのに、そこではぼくはなのだ。誰とも声を交わさず、誰とも目が合わない、完全な孤独を持ち合わせていても、人の気配は絶えない。  この矛盾に、彼は疲れてしまったのだろうか。茶化したぼくに、あいつは小さく笑った。笑ったのだと思う、たぶん。口端を僅かに引き上げたのでそう見えただけで、もしかしたら泣きそうだったのだろうか。  群馬県はみなかみ町と、新潟県の南魚沼郡湯沢町にまたがる谷川連峰西端の高山、平標山。  元橋の駐車場から、今回は平本新道のコースで山頂を目指す。天上を覆う林道を通り山の家を経て、山頂へ向かうルートだ。  登山開始まで小雨が降る天気だったせいか、林道は燻るような霧がたちこめていた。山頂の方は晴れていると良いのだが。  見晴らしを期待しないのであれば、ぼくは雨天の山も結構好きだ。特に林道を抜けるときの雨は好い。水を豊富に蓄えている潤った山は殊更豊かに感じられた。  あれは確か白山だったか。雪解けの水が山のあちこちから溢れ出ていて感動したものだ。何に感動したのか自分でも分からないが、山が生きているように感じたのを覚えている。  豊かな水は豊かな木々を育み、木々は山に生きる動物の命を潤す。山とそこに生きる存在は一体であり、ぼくはただの訪問者であるのだが、一時でも溶け込めるような気になる。  被ったフードの外側を、天上を覆う木々の葉から落ちた水滴が叩く。その断続的な音が心地よい。  霧に包まれた咽かえるような土の匂いが懐かしくて堪らない。  一歩ずつ踏みしめる自分の足が、確かに目的地へと進む。  時間に追われながも同じ動きを繰り返す日々から、この空間はまったく切り離されている。  それは、聞こえる音からさえ明確に。  急こう配の階段を登りきると、『平標山の家』の玄関口へ辿り着く。今日の宿泊地だ。  まだ少し霧はたちこめていて、開けていたら望めるはずの仙ノ倉はおろか、これから登頂する予定の平標山山頂も、まだ靄の中だ。  ここからは森林限界。空を覆う木立はなく、頭上には遮るもののない空が広がっているはずだ。  ぼくは山小屋を訪ね、主人へ荷物を預けた。長い白髪と髭を蓄えた仙人のような人だが、平標山の山道の修復を行ってくれている。  平標山から仙ノ倉まで続く花が咲き誇るルートの木道を整備したのはこの人だ。おかげで綺麗な花畑は今日まで保たれ、我々の目を楽しませてくれる。  スマホと水、救急セットなどの最低限の装備を携帯リュックに詰め、ぼくは今一度、山頂を目指す。 「山の夜を過ごしたことは?」  いつか、同僚は呟くようにぼくに問いかけた。  ぼくは元々インドア派で、海や山は好きだが本格的に向き合ったことは無い。ぼくが首を振ると、同僚は「そうか」と軽く頷き、 「不思議な静けさがある」  と続けた。  不思議な静けさ、とは。 「飲み込まれそうだが、嫌ではない。もう一度あの夜に浸されたくなる」  思えば詩的な表現をする男だった。気取っているわけではなく、普段からそういった言葉を使うやつだった。  登山中毒だな、と、やはり笑った覚えがある。  ぼくが山に登るきっかけになった男だが、彼と一緒に登ったことは無い。  ぼくがはじめて山に登ったのは、彼が会社を辞めてぼくの前からいなくなった後だ。 『平標山の家』から山頂を目指すと、終盤は急な階段になる。歩幅が広くてなかなか歩くリズムが掴みにくい。  白い靄の中、聞こえるのは。  ひたすら自分の呼吸と、ナイロンの衣擦れの音と、階段を踏みしめる足音だ。  その他の一切合切が、ここでは切り捨てられている。  ぼくは一人だ。  だが、それがどうしてか、嫌ではない。  そうであって当然の空間にいるからだろう。 「矛盾がない。自分の挙動一つ一つが、まっすぐ結果に至る」  山界に入る彼に理由を聞いた時、彼はそう言った。  それがとても楽なのだと、静かに笑った顔を覚えている。  足を止めれば動かず、踏み出せば目的地に辿り着く。声を出せば響き、黙っていれば沈黙がある。  山頂間際。靄の中に青が見えた。  最後の力を振り絞り、ぼくは頂の端に足を掛けた。振り返る。  生き物のようにうねり、流れていく雲の向こうで、だんだんと空が広がっていく。  波のようだ。山肌を泳ぐように雲が晴れていく。  太陽が─── 「何もない空を見ると、自分の中を空っぽにできる。  青空でも、星空でも、ただただ美しいと思えることに驚くんだ」  街は、彼にとってあまりに複雑で疲弊してしまうのだろう。  だから途方もない空間に身を置きたくなる。どこかに自分の感情ごと昇華したくなるのだ。  彼が去ってから、それに気づいた自分が、少し悔しい。  ぼくが誘っても、もしかしたらあいつは同行を断った気もするけれど。  山頂から東へ向かうルートを行けば「花畑」を通って仙ノ倉へ至る。  だが、本日はここまで。来た道を戻り、山小屋へ向かう。  山菜の夕食を頂いた後は小屋の主人と酒を囲み、晴れていれば星を敷き詰めた夜空を眺めて寝床へ入る。  高級ディナーも広々とした露天風呂もないが、シンプルに充実した予定が待っていた。  ぼくは荷物を背負い直すと、下山の前に空に向かってカメラを向けた。  ただ、ただ青い空を映す。 「美しいと思えることに驚く」  深い青の画像を眺め、彼の言ったその言葉に、胸の奥から賛同していた。
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