すみれの母

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すみれの母

 道端を彩る紫を、これまでは特に気にして見たことなどなかった。  きっと春ごとに、色彩はそこにあったのだろう。けれどたとえ視界に入っていても、意識の上にはっきりと現れなければ、それは見えていないのと同じことだし、存在しないのと同じことだ。そういう意味では、その野花は今はじめて、私の世界に生まれ落ちたとも言える。  すみれの花、という言葉から漠然と思い描いていたのは、儚げで健気な少女の姿だった。足を止めてまじまじとそれを観察するに従って、それがまるで見当違いなイメージだったことを思い知る。  実際のところ、すみれたちにふさわしい言葉は「逞しい」とか「ふてぶてしい」とか、そういうものだ。アスファルトの僅かな隙間を目ざとく見つけ、人間の塗り固めた硬い地面を割り開かんばかりに繁茂する、その姿は生命力そのものだった。  気色が悪い、と思った。動植物の頂点に立ち、霊長を自負する人間という生き物に対する、それは確かな侵略に思えた。 「すみれは春の花って印象があるけど、実は一年中、種をつけるんだって。自分ひとりの力で種を作るんだよ。すごいよね」  私に向かってそう説明してくれる女の子のランドセルは、くすんだすみれ色だ。 「じかじゅふんって言うんだって」  すみれの花から視線を持ち上げて、まっすぐに私を見つめた女の子は、年齢に不相応な難しい単語を口にした。じかじゅふん。 「それでね、種の殻が弾けて、すっごく遠くまで種を飛ばすんだよ。だからすみれは、どこにだって咲いてるの。どこでだって()えていけるの。じかじゅふんするから」  マンションに帰るまでの道で、私はその単語を頭の中で繰り返し続けた。じかじゅふん。じかじゅふん。じかじゅふん……  私のへそから植物が生えてきたのは、それから数日たった頃だった。初めに見つけたのは俊介で、労働から解放された金曜の夜に、生あたたかい舌で私の肌を愛撫している最中のことだった。 「なんかついてない?」  俊介は不思議そうに呟いて、私の手を取ってへその辺りに誘導した。柔らかく滑らかな「なにか」に指先が触れたとき、私は大きな予感のようなものを確かに胸にいだいた。期待にも不安にも似ていたけれど、それは恐怖だった。 「なんだろう」  俊介は純粋に好奇心を刺激されたらしい。枕元の明かりをつけて、私のへそを観察する。すぼんだ皮膚の隙間から覗いていたのは、小さな緑色の突起だった。植物の芽だ。すみれだ、と私は咄嗟に思った。道端に生えていた、あの無遠慮な植物の種は、私の体の中にまで入り込んだのだ。そして私のお腹の中で成長し、とうとうへそから芽を出すに至った。 「なにこれ、大丈夫?」  すみれの芽をいじりながら、俊介が訊く。 「知らない」  私はぶっきらぼうに言って、俊介の首に腕を回し引き寄せた。それを、行為を中断されたゆえの不満だと解釈したのか、俊介は嬉しそうに笑って、私にキスをした。私は芽生えた恐怖を早く忘れたくて、何の意味もない一連の行為に、必要以上に溺れようとした。俊介の侵略を受け入れる。アスファルトを割り開いて咲くすみれの花。  頭の中に、あの女の子の声が響く。じかじゅふんって言うの……  へそから生えてきたすみれは、春の陽気も手伝ってか、みるみるうちに成長した。はじめは頼りなげに細かった茎も、ぐんぐんと伸び、増え、葉を伸ばした。へそから繁茂した濃い緑色は、こんもりと盛り上がり、ひどく目立つ。気をつかった俊介が、マタニティ用の服を大量に買ってきてくれた。腹が目立たないようにだろうか、それとも、へそから生まれた静かな命を潰してしまわないためだろうか。私はその疑問を口にせず、締め付けの少ない服を毎日身に着けた。  腹にすみれを抱えても、私の日常はさして変化することもなかった。ただ、図書館に足を運ぶ回数が少し増えた。植物図鑑や野花の本を手にとって、窓際の席に座ってページをめくる。すみれという単語を見つけたら、その章を隅々まで読む。そうしてようやく「じかじゅふん」という奇妙な単語が、「自家受粉」という字を書くらしいことを知った。  他の個体とではなく、同一個体で受粉すること。つまり、自分の子種で自分の子供を孕むということだ。春の花の時期を過ぎたら、すみれは花を咲かせないまま蕾の中で自家受粉をし、種をつけるらしい。その章を読みながら、私は無意識に腹の辺りをなでていた。すみれは随分と育ったけれど、まだ花はつけていなかった。 「すみれ?」  ささやくように声をかけられて、私は飛び上がらんばかりに驚いた。いつの間にか隣には、すみれ色のランドセルを肩にかけた女の子がいて、私の手元を覗き込んでいた。 「すみれのお勉強してるの?」 「そう。あなたは?」 「宿題しに来たの」  ランドセルを足元に置いて、女の子は私の隣の席に座った。図書館の無骨な椅子は、小学生の女の子には少し大きすぎて、棒きれのような足はぶらりと宙に垂れ下がっている。女の子は宣言通り、ランドセルの中から取り出した計算ドリルを広げて、数字を睨み初めた。私は少しの間、その幼い横顔を見つめていた。  絹糸のように細い髪が、ふっくらとした頬にぱらりと落ちている。問題が難しいのか、つんと尖らせた唇には血が滲んだあとがあった。彼女の癖だろうか。女の子の指はしょっちゅう唇に伸びて、小さな爪が上唇の皮をかりかりと引っ掻いた。  似たような癖が私にもあった。唇の皮をつい剥いてしまって、そのたびに生臭い鉄の味に顔をしかめるはめになるのだ。その時、隣に座っている女の子がまるで我が子であるかのような幻想に陥りそうになって、私は慌てて視線を本へと戻した。  この子は私の子ではない。自家受粉。私の子がこの世に生まれ落ちることは、永遠にない。すみれの花。  不妊という言葉を聞かされたとき、私は「ふ、に、ん」とゆっくり呟いてみた。不思議に柔らかな響きの音だと思った。あまりにも柔らかすぎるがゆえに、そのたった三音は私の肚の中に入り込み、無遠慮な柔らかさで子宮を満たし、それが邪魔をして私の肚には赤ん坊が宿らないのだ。そう思った。  俊介と結婚して何年も経ち、私たちよりあとに結婚した友人夫婦に子供が産まれ、その子供が言葉を話すようになっても、私たち夫婦は二人きりのままだった。「万が一ってこともあるし、検査してみたら?」と義母に言われるがままに婦人科を受診し、告げられた結果が、つまり義母の言う「万が一」だったのだ。  不妊であったことを俊介に報告すると、俊介はいつもと同じ静けさで「そう」とだけ言った。 「ごめんなさい」 「なんで?」 「子供、欲しがってたでしょ」 「美香のせいじゃない。それに、子供はマストじゃない」  俊介の指が、私の頬をなぞった。目に見えない、私の涙を拭ったかのような動きだった。 「二人でいれば、必要十分条件は揃ってる」  俊介は、心の底から私を愛してくれている。私も彼を愛している。私は幸せなんだなあ、と思った。けれどその日から、俊介とのセックスに意義を見いだせなくなったのも確かだった。  私がセックスをするのは、子供が欲しいからだ。私は私がまだ子供だった頃から、自分の子供が欲しいと強く思っていた。老後の面倒を見てもらうとか、家計の助けになってもらうとか、あるいは自分の遺伝子をこの世に残したいとか、そんな理屈を思いつくようになるより先に、私はただ純粋に我が子を望んでいた。  純粋な、動物的な欲望だったように思う。りんごが、種の繁栄を意識してりんごの果実をつけるだろうか? ミドリムシが、自分の生きた証を残したいなどと考えながら分裂するだろうか? 私はりんごやミドリムシと同じだった。致命的な自意識を持て余すようになる以前、何も疑問に思わず繁殖していた人類たちと同様に、私はただ、子供が欲しかった。……  私の肚は、日に日に大きくなっていった。その中に在るのは、私の子ではない。自家受粉を繰り返し際限なく()えていく、可憐で凶暴な、すみれの株だ。初めに感じた恐怖はとうに消え失せ、私はすっかりすみれに心を許していた。道端に咲いているすみれは、あれほど気持ちが悪いと思っていたのに、いざ愛着を持ち始めると、そのふてぶてしさをかえって愛おしく感じるようになった。どうせこの先永遠に、満たされる日など来ないこの子宮を、いくらでも貸してやれば良い。俊介は何も言わなかった。時々濃い緑色の葉を指先で撫でては、「痛くない?」と私に訊くのだった。  肉の庇護を捨て、へそから外界へと飛び出したすみれは、ある日小さな花をつけた。図書館で調べたことによると、自家受粉するすみれは通常花を咲かせず、閉鎖花と呼ばれるつぼみのような器官の中で受粉する。花が咲いたということは、このすみれはもはや自家受粉する必要がなくなったということだ。  すみれの受粉形態を調べ、花に寄ってきた虫を媒介して受粉することを知った。私は暖かいうちに公園やベランダに出て、こっそりとへそを晒すようになった。よく寄ってきたのは小ぶりの蜂で、せっせとすみれの花の中へ潜り込んでは花粉をつけて去っていく様子を、私はいつまでだって見ていられた。  外の世界へ花を咲かせられることを知ったすみれたちは、我先にと葉を増やし、茎を伸ばし初めた。肚の容量に対して、その出口であるへそはあまりにも小さすぎる。一度に花を咲かせられるすみれはわずかであり、みながその枠を取り合った。私の肚は、通常人間が人間を孕むよりもずっと大きくなり、私の内臓を圧迫した。  俊介の「痛くない?」が「大丈夫?」になった。しきりに通院を勧めてくるようにもなったが、私はそれを断った。私はただ妊娠しているだけなのだ。それも、人間の子供よりもずっと強く、母などいなくとも生きていける生き物だ。本来ならば人間の庇護など必要のない生き物なのだ。それが、私の肚があんまりにも寂しそうだから、きっと慰めに来てくれたのだ。だから、人間の病院になんて行かなくても良い。そう説明すると、俊介は反論の余地もないとばかりにうつむいて、へそから伸びたすみれの花にキスをする。 「ぼくじゃ足りない?」  俊介が何を言っているのか、分からなかった。 「ぼくじゃ美香を満たせないのかな」 「おかしなことを言うのね。あなたは夫でしょ。子供とは違うもの」  結婚して子供が出来たら、恋人を子供に取られたような気になって、子供を目の敵にする人もいるのだと、以前どこかで聞いたことがある。もしかして俊介は、すみれたちに妬いているのかも知れない。けれど、彼は優しく寛容な男性だ。きっとすぐに分かってくれる。たとえ血の繋がりがないのだとしても、私の肚に宿った以上すみれたちは私の子であり、私たちの子なのだと。 「愛してあげて」  そうささやくと、口の中がじゃりじゃりとした。すみれが飛ばした小さな種子が、唾液腺を通って分泌されて、舌の裏や歯の隙間を闊歩しているのだった。私の子は、なんて逞しいのだろう。 「愛してるよ」  すみれたちの囁きよりもひそかに、俊介が言った。そしてすみれで満たされた私の体を、強く抱きしめてくれる。 「愛してる……」  ああ、私はなんて幸せな女だろう。俊介に抱きしめられ、幸福感に浸りながら、私は目を閉じる。まぶたの裏に、あの女の子が立っていた。すみれ色のランドセルの中には、図書館で借りた植物図鑑が入っている。女の子は私には目もくれずに、まぶたの裏側の暗闇の中へ、一目散に走っていった。濃い紫色のすみれが、踏み散らされるのにもかまわずに、女の子の足元を埋め尽くしていた。 <終>
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