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第一章 妊娠
この感情をなんと表現したら良いだろう。
ーーー
不安?
ーーー
違う。
ーーー
恐怖?
ーーー
これもまた違う。
ーーー
山本百合子は妊娠検査薬を握り締めながら考えていた。
妊娠は無条件におめでたい、祝福すべき事柄だと決まっている。
いったい誰が決めたのだろう。
結婚して妊娠すれば誰もが喜ぶと信じて疑わない、そう言う決め付けに苛立つ。
胸がムカムカした。
ーーー
そうだ。
ーーー
嫌悪感。
ーーー
百合子は確かに自分の中にいる存在に嫌悪感を抱いていた。
お腹にいる我が子の存在を否定するのは、ひどい母親だろうか。
ーーー
罪悪感?
ーーー
感じなかった。
ーーー
百合子の母親はシングルマザーだった。
百合子が物心つく前に両親は離婚した。
理由は知らない。
聞くとものすごい形相で殴るから。
百合子が口を開くと口答えをするなと言って、よく顔を叩かれた。
一発や二発の話ではない。
何度も。何度も。
百合子が恐怖で吐いてしまっても、
止めない。
いつ始まっていつ終わるのか、
分からない。
百合子が幼い頃からだ。
百合子の母は男が出来ると家を開け、
振られると戻ってくる。
その時は決まって、
「お前さえいなければ」
と言って叩かれた。
その繰り返し。
いつも子どもに優しく微笑みかけてお料理もちゃんと作る、きれいなママ。
そんな母親は空想の世界にしかいなかった。
百合子はそんな母から逃げるように、高校卒業と同時に東京で就職し、一人暮らしを始めた。
百合子には父がいない。
子供の頃、男というものがどんなものだか知らなかった。
漫画やTVから男というもののイメージを勝手に作っていた。
夫婦生活はなんとなくこうあるべきだと思っていた。
現実を知ったのは結婚してからだった。
あれやっとけ、これやっとけ。
まだやってなかったのか。
要領の悪い奴だ。
それはおまえが悪い。
頭が悪いのだから俺の言う通りやれ。
東大卒とやらの肩書を振りかざして、
説教が始まる。
子育てに至ってもそうだろう。
男はいい。
妊娠しても子育てにしても大した変化はないのだから。
ーーー今は要らない、堕して。
子育てはお前の役割だ。
なんの覚悟もない。
お金を入れればそれで役割は果たしていると言わんばかりの顔をする。
女は体に負担がかかる。
生活がガラッと変わってしまう。
振り回される。
今以上制約が増える。
百合子は妊娠検査薬で3度測って見たが、やはり妊娠している。
夫に報告すべきだろうが、なんと言うかだいたい想像がつく。
「ああ、そうか」くらいなものだろう。
百合子は30歳。
夫の拓実は48歳。
百合子の大学の教授だ。
夫からのプロポーズで、
百合子の卒業と同時に結婚した。
百合子は愛するという気持ちが分からなかった。
小説によくあるように、自分を犠牲にしてまで人を愛するなど信じられなかった。
常に目の前に、いい見本がいたのだから。
だから愛してくれそうな人を選んだ。
それが夫を選んだ1番の理由だった。
夫との夫婦生活はもう8年を迎える。
夫は仕事が忙しいし、自分も子供のいない生活に慣れている。
別に子供を欲しいとは思わない。
可愛いとも思わない。
自分勝手な行動する。
わめく、騒ぐ。
察するなど無縁。
理解など出来ない。
別の生き物。
母性など一つも持ち合わせていなかった。
この後の及んでも‥
百合子はため息をついた。
妊娠を素直に喜べない。
そんな自分がいる。
酷い母親?
だって私はあの女の子供だから。
あの人も私を産む時同じ事を考えたのだろうか。
だとしたら私は生まれていなかっただろうか。
意を決してトイレから出た。
トイレから出てきた百合子に夫は、
「トイレ長かったな」
と怪訝そうな顔をして聞いてきた。
百合子はしばらく黙っていたが妊娠の事を話した。
「そうか」
というだけで終わった。
想像より短い答え。
「明日、病院に行ってくる」
「ああ」
おそらく夫婦の会話で1番短い返事。
そんなもんかと思った。
食事を食べ終わると、
「明日は朝早いから寝る。分かったら『メール』してくれ。1日会議なんだ。」
と言って2階の寝室へと上がって行った。
明日は電話してくるなという事だ。
百合子は「はい」とだけ答え食器を片付けた。
次の日産婦人科に行った。
やはり妊娠していた。
看護師に「おめでとうございます」
と笑顔で言われた。
おめでとう‥?
百合子はフンと鼻で笑った。
妊娠しようといつもと変わらない生活が待っている。
文句も口答えもせず黙々と家事をこなす。
それだけ。
感情は要らない。
夫と会話する時だけ無理矢理口の端を釣り上げる。
それでいい。
病院の帰り道夜ご飯の材料を買って帰った。
メールは送った。
返信は無かった。
このままでいいのだろうか。
受精卵と同じく嫌悪感も1日ごとに細胞分裂を繰り返し増殖してゆく。
夫は一言、
「おまえの好きにしろ」
とだけ言った。
もちろん夫はお腹など触りはしない。
お腹の中の嫌悪感は確実に大きくなっていった。
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