第五章 絶望

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第五章 絶望

 夫が出かけた後、寝室に携帯が置いてあるのに気がついた。 「携帯忘れてる」  百合子は携帯を手に取った。  普段は夫のスマホを触ることはない。  勝手に夫の物に触れると、怒られるからだ。  でも会社で困るだろうと思い手に取った。  突然、夫のスマホの着信音が鳴った。  画面に「陽子」という名前が表示された。 「え?」  何で夫の携帯に陽子の名前が?    無意識にボタンを押していた。 「拓実、今日は泊まっていく? 百合子には仕事が忙しいから会社に泊まるって言っとけばいいのよ。 あの子鈍感だから気づかないわよ。 私が飼っていた犬、馬鹿犬でさ、要らないからあげたんだけどさ、保護犬って言ったら信じちゃって。 笑えるよね。 鈍感にも程があるっていうか、昔から思ってたけど、やっぱり馬鹿なんじゃないの? ま、利用のしがいはあったわよね」  間違いなく陽子の声だった。  夫は陽子と浮気をしていたんだ。  いつから?  帰りが遅い原因はこれだったんだ。  ほんと鈍感。  バカみたいに人を信用するし。  バカ。  バカ。  バカ。  ほんとにバカ。  死んじゃえ、ばーか。  百合子は足早にキッチンに行くと、包丁を取り出した。  さようなら。  手首に包丁を当てサッと引いた。  手首から勢いよく血が吹き出て、 キッチンを赤く染めた。  百合子はそのままキッチンの床に倒れ込んだ。  倒れた百合子の目にリビングの大きな窓が映る。  綺麗な青空。  手首から大量の血液が流れ出て百合子の服が血に染まる。  白のブラウス汚しちゃった。  結構、お気に入りだったのにな。  手首から勢いよく血が吹き出している。  頭がくらくらする。  大量に出血した為だろう。  力が入らない。  このまま意識が遠のいて、 はい、おしまい。  30歳か。  短い人生だったな。  少しはいいところあったのかな。  私の人生。 ーーーー  目の前に母親の姿が見えた。  恐ろしい顔をしていた。 「子供の癖に親の言う事が聞けないのか!」  母は百合子の首を絞めて言った。  百合子は母親を睨んで言った。 「親ならどんな子供だろうと愛してよ!」  鬼の顔の母親が消え、 小さい百合子の額に冷えたタオルを乗せている母の姿が見えた。  百合子が風邪を引いた時、母が寝ずに看病してくれていた。  そして思い出した。  その時、母の手首の内側に深い傷があるのを見てしまった事を。  そこにいたのは子育てに悩む1人の女性の姿だった。  虐待された記憶のせいで母の優しかった記憶が封印されていたのかも知れない。 ーーーー  どのくらい経っただろうか。  気がつくと、 誰かが百合子を引っ張っている。  ズッ‥ズッ‥  薄目を開けて見る。  姫乃が百合子の襟に噛みつき唸りながらドアの方に引きずっていく。 「姫乃‥?」  ズッ‥ズッ‥  巨体を震わせて、渾身の力を込めているのが分かる。  姫乃が一生懸命助けようとしている。  こんな私を助けようとしている。  あなたの事、捨てようとしてたのよ。 ズッ‥ズッ‥  ダメよ。  あなた、手術したばかりなんだから、 お腹の傷が開いてあんたが死んじゃう。  やめてよ!、やめてったら!!  私は死んでもいいのよ。  つまらない人生、終わりにしたかったんだ。  ‥ごめんね姫乃。  ダメな飼い主で。  あなたを苦しませて。  あなたはもっと優しい飼い主さんに飼われて幸せになって。 ズズッ‥ズズッ‥  姫乃は百合子をリビングの大きな窓の近くまでひきずって行くと、窓の隙間から外に出て行った。  さようなら姫乃。  そして、ごめんね‥。  姫乃は歩道に出ると大声で吠えまくり、近所の人達を連れて戻って来た。  近所の人達は入り口で、入って良いものか考えあぐねているようだったが、犬の尋常じゃない吠えぶりに意を決して門をくぐり、開け放された窓から血だらけの百合子を見て驚き、救急車を呼んだ。  その時には既に百合子の意識は無かった。
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