3 幼馴染1

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3 幼馴染1

 目を開くとすぐ傍に窓からの日差しを遮るようにぬっと人影が顔の前にあった。 「うわっ」  千雪はぎょっとして思わず起き上がると、相手の額と自らのそれを強かに打ち付けあってしまった。 「痛っ」  頭を抑えまだジンジンと訴える痛さに声を上げるも、貧血で目の奥が重く暗くなり、目の前にチカチカと星が瞬く。千雪はもたげた首をすぐまた力尽きたようにへなへなと枕に頭を沈めていった。 「うっ」  相手も千雪に額をぶつけられて顔を俯き加減にして小さく呻いている。  聞きなれた声を幼馴染のそれと認めるやいなや、千雪は日頃黙っていれば繊細精緻に描かれた西洋画のように優美な美貌を崩して、気遣わしげに覗き込んできた相手を大きな瞳でキッと睨み付けた。 「虎鉄! 石頭!」 「ごめんな。起こしたか?」  虎鉄は巻いていたバンダナ越しに強かに打ち付けられた額を摩りながら、よく日焼けした顔に穏やかな笑みを浮かべ、眦が切れ上がった奥二重の大きな瞳を真っすぐに千雪に向けてきた。  しかし感じのいいその爽やかな笑顔に騙されまいと、千雪は仰向けのままカアっと赤く熱くなった頬を手の甲をかざしながら隠しつつがなりたてた。 「お前!!! 俺に、今、キスしただろ!」  すると、虎鉄はイタズラがバレた男子小学生のようにニヤリとし、頭に巻いていた黒いバンダナを大きな掌でわしっと剥ぎ取り、快活な笑顔を見せた。 「寝てる千雪が無防備で可愛いすぎて、つい。それより、また倒れたって千秋さんに聞いたぞ? 大丈夫か?」    虎鉄のあまりにも悪びれず堂々とした姿に、狼狽している自分の方がよっぽど恥ずかしい気すらしつつ、負けじと千雪も言い返した。 「大丈夫だよ。店でちょっとふらついたから休んでただけだ。それより話そらすな! ……油断も隙も無い!!! 人が寝てる間に勝手なことするな!」 「いいじゃないか、初めてじゃないだろ?」 「は、初めてじゃなくても、気にする! 人の寝込みを襲うなんて卑怯だろ?」 「じゃあ、起きてる時ならいいのか? 」 虎鉄は首に手を当て男っぽい仕草で顔を傾け、千雪の心を透かすように覗き込んできた。見慣れた顔なのに真顔であればあるほど彫が深く男らしい端正さが目立つ。  内心見惚れ、それを悟られまいとしたが、かあっと耳まで 朱に染まった千雪の変化を見逃さず、虎鉄は口元には微笑みすら浮かべながら、ぐいっと悪戯っぽく唇を寄せてきた。 (くっそ。小中高と熱血野球小僧だったくせに。大学入った途端、色気づいて、ぐいぐい来るようになった。調子狂う) 「それとも、大学に入って、俺以外にキスしたい相手でも出来たとか?」  試すような口ぶりに、突っ込みどころが多すぎて千雪は黙っていればいまだに美少女然とした長い睫毛をそり返しながら目を剥いた。 「俺以外って……。なんでお前とはする前提なんだよ? それに、同じキャンパスだし、わかるだろ? そんなやついないって」 自分で言って情けなくなってしまった。大学に入ったら今度こそ虎鉄以外にも主に趣味の合う友人を作ってみようかと思っていたけれど、千雪の人見知りな性格が大学生になったからといって突然なおる訳もない。虎鉄がいなければ幼小中高、絶賛ぼっち継続中だ。 「でも学部は違う。ずっと一緒にいられるわけじゃないだろ?」 「十分一緒にいるだろ? 俺ら殆どここで寝泊まりしてるし、昼だって、夜だって……。朝いちの授業同じ時は一緒に投稿だってしてるし」  今2人がいる場所は昨年亡くなるまで祖父が暮らしていた店舗兼住居だ。千雪と母の暮らすマンションは近くに別にあるが、ちょっとした一人暮らし気分を味わえるこの場所に、兄弟が多く静かになれる環境を求めてやってきた虎鉄と共にこの春から2人して入り浸っている。 「お前、こないだサークルの新歓飲み会に誘われたよな? 人気のカフェとか喫茶店巡るってやつ」 「虎鉄だって運動系サークルに沢山誘われてたよね? 飲み会だっていってたし」 「あれは矢来先輩の付き合いで行ったぐらいだ」  矢来は虎鉄の野球部の先輩だ。野球部の打ち上げにも度々虎鉄に引っ張り出されていた部外者の千雪にもいつも優しくしてくれた人だ。千雪にあれこれ口出ししてくるくせに、自分は自由にしていると遠回しにと詰ったつもりが、仕方のない理由を言われて千雪は口ごもる。 「その喫茶店サークルのくるくるパーマの先輩。向こうから結構熱心にお前に話しかけに来たって言ってたよな? お前がここで働いてるって知ってたってことだろ?」  逆にちょっと目が怖い虎鉄から詰問口調で尋ねられた。 「そうだよ。結構賑やかなサークルだよって誘われた。おじいちゃんがジャズ流してた時のうちの店のこと知ってたから、話したらちょっと懐かしくなったんだ。特製ナポリタン食べにまた来たいって。たまに若いお客さんきてるのってうちの大学の学生さんかなって思ってたけど、本当にそうだったね。常連さんも大事だけど、若い人にも来てもらいたいよね」  千雪の祖父が趣味のジャズを流していた頃は祖父が存命だった1年前まで。今はダンス講師の傍ら母がお店を常連さんの力も借りて何とか切り盛りしているが、母の千秋は早いところ三代目たる千雪に店を譲って、本業一本に戻りたくて仕方がないみたいだ。 「……それ本当に喫茶店が目当てなのか?」    虎鉄しては小さな呟きを千雪は聞きとれず「??」と不思議そうな顔をした。 「うち以外の古い喫茶店巡って見てみたいなあと思ったけど、意外と人数多そうなサークルで……。俺、むしろ煩いの苦手だし、考えてみたら喫茶店なんて別に一人でも行けるし」  そんな風に応えたら、千雪の頬をふにっと触って虎鉄は満足げに微笑んできた。 「そうだな。喫茶店巡りなら俺と行けばいい。そうだろ? 将来お前がこの店継ぐとき、俺も手伝うって決めてるんだから」 「そ、そうだけど……。でもそれは大学卒業して虎鉄に別にやりたいことができたらその約束反故にしていいんだからな?」 「俺は千吉さんが創ったこの喫茶店が好きなんだよ。千吉さんに店と千雪のことは俺に任せてくれって約束してるんだから。じゃ、調べとくから、来週俺と行こうな?」 「それは爺ちゃんとお前が勝手に! んっ……。ちょっ! なに?」 再びゆっくり近づいてきた虎鉄の顔を、千雪は元々吊り上がり気味の眉をさらに吊り上げて、懸命に手を伸ばし、押しのけようとした。 「そもそも学校までここからチャリで10分なんだから、どこにもいかないで時間があったらすぐここ戻ってるって! 顏近い!! どけ!」  虎鉄の大きな切れ長の瞳がじっと千雪の瞳を覗きこみ、きゅっと細められると、なんだかこちらの心を見透かされているようで、自分が悪いことをしているわけではないのに妙に言い訳がましくなってしまう。それにまたムカついて千雪はつんっと澄ました猫のように顔を背けて赤い唇をむうっと真一文字に結んだ。 「これからも飲み会に誘われたら、真っ先に俺に言うんだぞ? 出先で貧血で倒れられたら危ないからな」 「わかったよ!!! 虎鉄の過保護! 汗臭い! 重い! 邪魔!」  虎鉄は少しだけ満足げに頷くと、片眉を釣り上げる彼特有の飄々とした表情を見せ、何事も無かったかのようにひょいっと千雪の手のひらをかわして身を起こす。  そんなふうに軽くいなされるとそれはそれでまた意味もなくむかついて、枕の上で首をめぐらせ視線で虎鉄を追うと、千雪には持ち得ないがっしりとした身体にいかにも似合いの男らしい顔つきは羨ましくて憎たらしいほどだ。 「どうした? 物欲しそうな顔して。やっぱり俺とキスしたかったのか? 」 そんなふうに囁きながらまた千雪の額にほつれた前髪に指先をはわせるから、今度こそその手を軽くぺしっと叩き落とした。 「はあ? そんな顔してないし!」 「なんだかんだ言って、千雪、キスすると、気持ちよさそうに蕩けた顔するもんな?」 「やめろよ! いちいちこういう揶揄われ方すんの、むかつく! 好きじゃない」 「揶揄ってるわけじゃない。千雪が嫌なら、キスしないだけ。そんな怖い顔じゃなくて、笑うと千雪はすごく可愛いから。笑った顔が見たいんだ。なあ?」  くっきりと刻まれた唇をにいっと吊り上げて笑う虎鉄の仕草は余裕すら感じられ、千雪はまた癪な気分になった。 (くそ、こいつのこういうとこ!!)  弟分に詫びでも入れるようにぽんぽんと千雪の頭を撫ぜ叩いて、虎鉄は千雪の布団から大きな身体をゆっくりと起こす。 「そういう軽口、ほんと、ムカつくからやめろ。幼馴染の男に対して言う台詞じゃないだろ?」 「可愛いものは可愛い。綺麗なものは綺麗だ。仕方ないだろ? 俺は正直者なんだ」 「あーもういい。ああ言えばこういう。お前最近一臣兄ちゃんに似てきてない?」 「俺が一臣に? やめてくれ。あんなにチャラついてない」 虎鉄の兄の一臣は、美容師になる夢をかなえた恋人を支えるため、彼女に実家の銭湯を継ぐべくこの店の真裏にある銭湯に婿入りした。学生時代から未だに金髪ピアスは5つばちばちに開いているチャラ男だけれど、器用で口も上手くて如才ない性格の一本筋の通った人気者だ。古びた銭湯を今風にリフォームして、地域の交流の場所としても小さな音楽イベントや落語の会を開くなどして若いお客も取り込んだ。『4代目! やり手美男子若旦那』なんて呼ばれて雑誌の銭湯の特集に組まれているほどだ。 (虎鉄、最近一臣兄さんっぽい、柔らかい雰囲気が出てきたんだよな。大人っぽくなったっていうか。余計に女の子にモテそう)  千雪はそんなふうに考えて、もやっとした気持になり、またつんと唇を尖らせたのを見て、虎鉄はまた好物でも見つけたように嬉しそうに微笑んだ。 「まあさ、千雪はそういう、つんつんした仕草も可愛いんだけどな」 「はあ? なんだよ、いつも、その上から目線!!」  ぎゃあぎゃあと喚く千雪を鷹揚な様子で愛おし気に眺めている虎鉄。  千雪には互いの距離感が大分おかしいという自覚はある。しかし千雪と虎鉄は付き合ってはいないのだ。
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